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2005.12.26

エイゼンシュテイン

eisenstein

 映画史に残る古典的名画『戦艦ポチョムキン』の監督、セルゲイ・ミハイロヴィッチ・エイゼンシュテインの伝記。革命前のロシアに生まれ、革命の動乱で家族が離散し、革命の中で新しい演劇運動に身を投じ、やがて映画の世界に移り、『戦艦ポチョムキン』という一世一代の作品で国際的な名声を博したエイゼンシュテイン。しかしその彼の目の前で、革命は専制に取って代わり、新しい芸術運動は音を立てて崩れ落ちていく。エイゼンシュテインが理論化したフォルマリズムは政治的非難を浴び、リアリズムこそが政治的に正しいとされる社会の中に、エイゼンシュテインの居場所はなくなっていく。これはエイゼンシュテインという一人の芸術家の視点から見た、ロシア革命史でもあるのだ。著者は映画監督の篠田正浩。

 20世紀思想家文庫の第3巻として岩波書店から発行されていたもので、現在は絶版になっているのを僕は古書店で見つけて手に入れた。この初版は1982年で、定価は1,500円。このシリーズでは他に、トーマス・マン、チョムスキー、ハイデガー、ピカソを取り上げているのだが、作家もいれば思想家も映画監督も画家もいるという、ちょっと変わったシリーズだ。しかもそれらを「思想家」としてとらえようとしているところが面白い。

 エイゼンシュテインは映画に関する論文を数多く発表して、キネマ旬報社から未完の全集も発行されていた。(現在も部分的には手に入るが大部分は品切れ状態。)エイゼンシュテインの思想を解説していく著者の筆致は、さすがに早稲田大学文学部卒という感じ。日本の古典文学や歌舞伎の伝統を踏まえつつ、エイゼンシュテインの理論を日本人向けにアレンジしているのだ。しかし僕は日本の古典の素養がないので、この置き換えでも意味がよくわからない部分が多かった。

戦艦ポチョムキン
戦艦ポチョムキン
posted with amazlet on 05.12.27
アイ・ヴィー・シー (2003/06/20)
おすすめ度の平均: 4.5
4 お勉強になる映画のtop
5 今も生命力溢れる映画

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2005.12.25

銭形平次捕物控〈1〉平次屠蘇機嫌

銭形平次捕物控〈1〉平次屠蘇機嫌
野村 胡堂
嶋中書店 (2004/05)
売り上げランキング: 97,889
 少し前に最初の5巻をまとめて購入していた、嶋中書店の「銭形平次捕物控」傑作選。巻数が多いので最初は全集だとばかり思っていたのだが、中身は銭形平次三百数十余編からの抜粋でした。1巻に10話だとして、全部で40冊もあれば全集として完結しそうなものだけれど、さすがにそれは現在の出版事情で難しいのかもしれない。これが文庫本6巻で完結する「半七捕物帳」との違いなのだ。

 時代小説としての面白さは「半七捕物帳」の方がずっと上だろう。幕末に時代設定して江戸風俗を描いた岡本綺堂の姿勢は、やがて池波正太郎の「鬼平犯科帳」などにも受け継がれていく。「銭形平次捕物控」の面白さは時代を描く部分ではなく、主人公平次と子分のがらっ八による、芝居染みた言葉の掛け合いにある。トリックや謎解きで読者を楽しませるミステリー小説としても「半七」よりだいぶ整理されていて、架空の江戸時代(なんとなく文化文政)を舞台にしたエンターテインメント小説としては一級品だと思う。

 ただしこれをずっと読み続けることが面白いのかというと、どうなのだろうか……。僕はあと4冊手元に未読のものが残っているのに、「もういいや~」という気分も濃厚。雰囲気がわかればそれでいいという人は、読むのを数冊でとどめるか、他に出ている傑作選で構わないような気もする。とりあえず僕は、時間を見つけては5巻まで読んでみますけどね。案外そこまでいくと、独特の文体が癖になってさらに続きが読みたくなるかもしれません。

銭形平次―時代小説英雄列伝
野村 胡堂 縄田 一男
中央公論新社 (2002/10)
売り上げランキング: 391,923

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2005.12.18

何が映画を走らせるのか?

何が映画を走らせるのか?
山田 宏一
草思社 (2005/11)

 エジソン、リュミエール、メリエスから始まる映画110年の歴史を俯瞰しつつ、その歴史のひだに分け入り、細部をクローズアップしていく映画史エッセイ。もともと月刊誌に読みきり連載していた原稿を集めているので、ひとつひとつの記事は比較的短め。映画マニアや研究者向けではなく一般向けの読み物なので、解説もじつに丁寧で読みやすい。長期の雑誌連載をまとめていることから記事に一部重複もあるのだが、それが著者の好みを反映しているようで楽しい。その時々の時事的テーマを扱っていることから、いささか古びてしまった話題もなくはないのだが、それはそれで記事を書いている時の「今」が見えるという意味で悪くはない。

 著者が映画や映画史についての直接持論を述べるというのではなく、他の資料(伝記・自伝・インタビュー・評論など)からの引用を活用しながら、テーマになった事柄を解説していくというスタイルが多い。しかしテーマは著者が選んでいるのだし、引用している資料も著者が準備しているのだから、これは引用の形を借りて、やっぱり著者なりの意見を述べているのだけれど……。著者のインタビュー集「映画とは何か」からの引用も多い。

 原稿は大まかに雑誌掲載順に掲載されているのだが、取り上げている話題によって少しずつ前後している。しかし巻末に「映画は女で作られる」という記事が掲載されているのは、かなり意図的なものだろう。スクリーンに登場する女性の「美」について語ってきたこの記事の締めくくり部分に、こんな文章がある。

 いまはもうスターの時代ではなく、女優もスタートしてよりは普通の人間として生きたいという時代だから、「美しい」などという陳腐で大げさな紋切り型の表現でスターを崇め、美女を礼賛すること自体が反動的ともみなされたねないものの、それは、とりもなおさず、情熱につきものの不合理性(狂気と言ってもいい)があられもなく映画を輝かせていた時代も終わったということなのかもしれない。

 映画史の中では消えてしまったジャンルや消えてしまった表現というのが多いのだが、じつはスター女優をスクリーンの中で現実離れした美しさに輝かせるという伝統も消えてしまったのだ。ディートリッヒやグレース・ケリーのようなスクリーンの美女が、映画に登場することは二度とないのかもしれない。

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2005.12.12

グリフィス―ハリウッドに巨大な城塞(バビロン)を築いた映像魔術師

4889912525グリフィス―ハリウッドに巨大な城塞(バビロン)を築いた映像魔術師
向後 友恵


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 1992年に発行された、「アメリカ映画の父」と呼ばれるD.W.グリフィスの簡単な伝記。「2時間で一気に読める伝記エンターテイメント」ということで、中身はひどく駆け足で、記述も資料に沿ったものというより小説に近い。登場人物の台詞は、ほとんどが著者の創作、もしくは複数の資料から自由に引用して作られた(再構成された)会話ではないだろうか。グリフィスの生い立ちから不遇な晩年と死までを大づかみに紹介している点では便利な本だが、グリフィスを人種差別主義者と一刀両断にしてしまうあたりは、テレビの伝記バラエティ番組「知ってるつもり」とさして変わらないのかもしれない。「アメリカ映画の父」としてのグリフィスには、もっと語らなければならない部分があるはずなのに……。

 グリフィスが映画史のビッグネームになっているのは、単に『国民の創生』や『イントレランス』で長い映画を作ったからではない。彼はそれまでのサイレント映画の技法を集大成し、改良し、より発展させのだ。グリフィスに至って、映画の技法は完成したと言ってもいい。クローズアップやモンタージュ、カットバック、クロスカッティング(平行モンタージュ)などの技法は、グリフィス以前にも存在した。しかしそれらの技法はまだ思いつきのように使われていて、映画話法の中でどの技法をどんな場面に使えばどんな効果を生み出すのか、誰もはっきりとは知らなかったのだ。グリフィスはそれを整理して、映画で物語を語る方法を一気に進歩させた。その結果が、『国民の創生』や『イントレランス』といった作品につながっていく。

 公民権運動が一定の成果を上げた後の価値観から、グリフィスの人種差別を非難するのは簡単だろう。確かにグリフィスは黒人を一人前の人間とは認めなかった。しかしそれは、当時のアメリカの一般的な価値観だったに違いない。当時のアメリカで黒人がどのように扱われたのかをまったく無視し、『国民の創生』の差別的な描写だけを非難するのは、グリフィスの評伝としてはバランスを欠いたものだ。グリフィスは1910年代のアメリカという地理的・社会的な制約の中で映画を作っていたわけで、彼がいかに偉大な映画監督だったとしても、そうした物理的制約から自由になることはできない。アメリカ映画はグリフィスの後も何十年にも渡って、先住民であるインディアンを西部劇の悪役にしてきたではないか。黒人が一般映画で主役になるのは、シドニー・ポワティエの登場以降のことではないか。そうしたことを無視してグリフィスを非難するのはアンフェアだろう。

 もちろんグリフィスの生涯を描くには『国民の創生』について語らなければならないし、この映画について語る際は、その人種差別的な描写について批判的なコメントをしなければならないのは当然だ。しかしこの本の中では、グリフィスが映画史の中で果たした「功績」についてはほとんど言及しないまま、彼の「差別主義者」という側面には批判の追求をゆるめない。グリフィスのネガティブな面を描くなら、それ以上に映画技術の発展に寄与した、彼のポジティブな面にもしっかりと光を当ててほしい。

 これが映画史の本ではなく一般向けの本だから、著者は「映画技法」などという専門的な部分をはしょって、人種差別というわかりやすい部分をクローズアップしたのだろうか? 著者のあとがきを読むと、必ずしもそうではなさそうだ。著者曰く『人権について、あらゆる差別について、改めて考えるために、今、D・W・グリフィスを語ることは、価値ある試みのひとつでしょう』とのこと。この著者は十分に自覚した上で、「人種差別主義者グリフィス」について書いている。人権運動家ならそれも結構。でもこれは「映画の歴史を語る」ことではないと思う。

 本書の巻末に、川本三郎が「映画の父と帽子」とうい短文を寄せている。そこにはグリフィスの映画史における功績や、彼の映画人としての誇りが簡潔に紹介されている。いささか映画『グッドモーニング・バビロン』に頼っている部分はあるものの、グリフィスをポジティブに評価したこの短文の方が、映画史におけるグリフィスをより正確に写し取っているように感じる。

B0000TXOSQ國民の創生
リリアン・ギッシュ D・W・グリフィス


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2005.12.11

闇のなかの夢想―映画学講義

yaminonaka

 1982年12月発行。「死霊(しれい)」で知られる作家・評論家の埴谷雄高(1909~97)と、小説家の小川国夫(1927~)による映画対談。ほとんどが映画史初期のサイレント映画についての話題ということもあり、年長の埴谷雄高が語り、小川国夫が聞き役という形になっている。埴谷雄高の書いたあとがきによれば、この対談は本書に取り上げられたよりずっと長く続き、後半は小川国夫が語り手になる「戦後編」になるのだという。しかし戦後の映画については他にもたくさん本が出ているから、むしろこの対談の面白さはこの戦前・サイレント映画編にあるのではないだろうか。

 僕は埴谷雄高の読者ではないし、埴谷雄高が映画評論をしていたこともまったく知らなかった。しかしリアルタイムで古い映画を観ている体験と、その記憶力の確かさには舌を巻く。ところどころに記憶の不確かな部分や勘違いが見られるが、それは小さな欠点だろう。(勘違いとしては、例えば『丹下左膳』と『丹下左膳余話・百万両の壺』の取り違えや、ドライエルの『吸血鬼』とロン・チェイニーの怪奇映画の混同など。)

 映画の発明からサイレント映画の発達、各国の映画事情などを時代を追って語っているので、これは映画史の講義になっている。大正から昭和にかけての映画を個人の体験で語っているので、一般の映画史にはまったく登場しないような映画や映画人がところどころに登場するのが面白い。映画史を巡る雑談風の対談なので、映画について掘り下げて語っている部分はあまりないのだが、文学と映画の比較はこの顔ぶれなればこその話題かもしれないし、古典的な芝居の演出と映画演出の違いという話も面白かった。

4309607624埴谷雄高作品集 12 映画論集 (12)
埴谷 雄高


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2005.12.10

禁じられた福音書―ナグ・ハマディ文書の解明

4791761707禁じられた福音書―ナグ・ハマディ文書の解明
エレーヌ ペイゲルス Elaine Pagels 松田 和也


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 カトリック教会(カトリック信仰)成立以前の多様で多彩なキリスト教の世界を、「トマスによる福音書」に代表される正典外資料や、エイレナイオスの「異端反駁」に記載されている異端論争を通して浮かび上がられる初期キリスト教史。異端の福音書とされた「トマスによる福音書」と新約聖書正典となった「ヨハネによる福音書」を比較しつつ、初期カトリシズム信仰におけるキリスト論の発達を論じる視点はユニークで新鮮。いわゆる正統派キリスト教はその後、ヨハネのキリスト論を通してマタイ・マルコ・ルカの共観福音書を解釈しているという指摘は、当たり前のようだけれど目から鱗が落ちるようなものだった。

 キリスト教の誕生から数百年の間、キリスト教内部にはさまざまなキリスト論があり、それにもとづいた教会論と教会運営が存在した。しかしそれらをひとつの「普遍的な教会」にまとめるために、それまで数百年にわたって「正統」とされてきた信仰の多くを「異端」として切り捨てたのだ。これは周囲から迫害され続けたキリスト教が一致結束して生き延びるために必要な歴史的な必然だったのかもしれないが、それによって失われたものも多い。

 「トマスによる福音書」の再読を迫る本だと思う。「トマス」の描くイエスを通して、共観福音書を再読してみたい。それによって、我々は2~3世紀に確かに存在した、別のキリスト教に出会うことができるのかもしれない。

ナグ・ハマディ写本―初期キリスト教の正統と異端
4560028990エレーヌ ペイゲルス Elaine Pagels 荒井 献


おすすめ平均 star
starグノーシスか、或いはナグ・ハマディか。
star感動的で歴史的な力作、、、を貶める訳者の傲慢
starグノーシス派についての適切な解説書
star仏教の理念がイエスの教えとして表現された
star大胆で魅力的な本

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2005.12.05

ル・シネマ―映画の歴史と理論

4788508265ル・シネマ―映画の歴史と理論
ユセフ イシャグプール Youssef Ishaghpour 三好 信子


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 映画史と映画理論の本だが、それほどのボリュームはない。初心者向けのガイドブック程度のものだろう。しかしこれが、読むのにひどく苦労させられる本だった。訳がよくないのかもしれないが、それより内容が問題だ。これは映画史や映画理論の概説書というより、映画史や映画理論についてのエッセイと呼んだ方がいいのではないだろうか。映画を「現実のイマージュ」「イマージュの現実」と定義し、リュミエールの「眺め」とメリエスの「魔術」の混成物として分析していく語り口は大胆で力強い。しかし語られている内容のほとんどが著者の思索で占められているため、具体性のまるでない観念的な言葉の羅列になっている。

 もちろんここで具体的に何かを語り始めれば、それだけでこの本は何倍にも膨れ上がってしまうだろう。この本は著者の思索をエッセイ風にまとめているがゆえに、このボリュームで済んでいるのかもしれない。映画にまつわることばのひとつひとつは、アフォリズムのような鋭さを感じさせる。読んでいてすごいとうならせる部分もある。しかしまったくチンプンカンなところも半分ぐらいあって、全体としてはまるで歯が立たなかったという印象が残る。

 映画史と映画理論は著者の中で強く結びつき、互いに響きあっている。この本は一度読むだけでなく、何度も読み返すことで、著者の主張はよりくっきりと浮かび上がってくるのかもしれない。いずれ再読したいが、それまでは本棚の肥やしだ。

4588005073エリアス・カネッティ―変身と同一
ユセフ イシャグプール Youssef Ishaghpour 川俣 晃自


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