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2005.04.19

メディア・リテラシー

 ここ数日で僕が直接関わった出来事と、そこから思ったことを記しておく。まずは出来事の概略からだ。

 聖神中央教会の事件関連で「カルト」について調べていたところ、「随想 吉祥寺の森から」というブログで興味深い記事とコメントを見つけた。「カルトと非カルトとの境界線とは?」という記事の中で使われている「カルト」という言葉の意味や定義について、読者から疑問が出されていたのだ。僕自身はこの時点で「カルト」について調べる前だったのこの記事にはコメントしなかったのだが、続く「「カルト」概念は広くとって考えるべきだ」という記事で同じようなコメントの応酬があった際は「カルトを批判する前にその定義をはっきりさせるべきだろう」という意味のコメントをした。

 このコメントへの返信ではないが、先方のブログでは「なぜ、あらかじめカルトへのケア体制を整えなかったか」という記事で、「カルト」の意味を細かく定義してきた。だがその内容があまりにも穴だらけに思えたため、記事に対するコメントとして僕はそれを指摘した。しかしこれを先方は、自分の運営するブログに対する悪質な非難中傷と受け止めたらしい。いささか感情的な言葉がコメントとして返されてきたが、再度こちらから「カルトの定義」を求めたところ、コメントではなく「一時的、瞬間的にカルトに堕する危険」という別の記事の中で、より細かく「カルトの定義」を行うに至った。

 問題はそのあとに起きる。先方が「なぜ、あらかじめ~」のコメント欄で僕を非難するような物言いをすることに少々気分を害していた僕は、再度同じ記事のコメント欄で先方のコメントの揚げ足を取るようなことを書いた。これは相手が既に相当不愉快な気分を味わっていることを承知の上で、その気分をさらに逆撫でして挑発してやろうという気持ちもあってのことだ。この挑発にまんまと乗った先方は、このコメントに対してさらに感情的な返答を返してきた。そしてそれ以降は、僕からのコメントを次々に削除するという防衛手段に出たのだ。

 削除されたコメントで僕が書いたのは、だいたい次のようなことだった。

 HPやブログを外部に公開している以上、そこでは自分が想定していなかった読者からの反応が返ってくることがあり得る。たとえそれが誤解や無知によるものだとしても、公開されたサイトの運営者はそれらを甘んじて受け入れねばならない。ブログのような文字だけの媒体では、そこに書かれた内容で書き手のパーソナリティや見識が判断されるので、「私のことをよく知りもしないくせに」とか「見ず知らずの他人のくせに」などと文句を言うのは、書き手としては甘ったれている証拠である。公開された場で自分の意見を表明する際は、書き手としてそれなりの覚悟が必要ではあるまいか。

 ……とまあ、そんな内容のことに、多少の皮肉を交えて書き込んでおいたのだが、これはコメント欄から削除されてしまった。その後も先方はあれこれと僕を非難する記事やコメントを書き加えたりしているが、僕の興味は既にそこにないのでいよいよ本題に入る。それはオンライン・コミュニケーションにおける、メディア・リテラシーという問題だ。

 上に書いた「書き手の覚悟」という問題は、僕自身が自分のHPを運営したり、ブログでものを言ったりする以前に、じつはパソコン通信時代から考えていることだ。パソコン通信というのはHPやブログ以上に、純粋に文字だけでコミュニケーションする世界だったため、細かな言葉の取り違えやトゲのある言葉の応酬から、感情的なバトルに発展することがしばしばあった。インターネットがまだ普及しておらず、ネットワークコミュニティとしては特定業者が運営するパソコン通信しかなかった時代だった。不愉快な目にあっても他に場所を移すこともできず、バトルは小国の内戦のように、そのコミュニティの参加者全員を巻き込み、深刻化し、長期化することがあった。バトルが拡大した結果、管理者が運営を放棄してコミュニティが瓦解することすらあったのだ。

 しかしそれも、今から考えればいい時代だった。そこでは参加する人たちの間で、自分の言葉に対して責任を持たねばならないという最低限のルールが共有されていた。言葉だけのコミュニケーションだからこそ、その言葉には重みがあった。(と、僕はNIFTY-SERVEで自分が参加していたいくつかのフォーラムを念頭に置いて話をしている。具体的にはFというシスオペが運営していた頃の映画フォーラムなど。よそではもっと大変なフォーラムもあったようだが、僕は直接は知らない。)しかしそれはもう、遠い昔話なのだ。

 10年ほど前からオンライン・コミュニケーションの主流はインターネットになり、パソコン通信は姿を消してしまった。ニフティには今でもフォーラムというコミュニティサービスが存在するものの、その中身はすかすかでもはや見る影もない。(遠からずニフティからはフォーラムそのものが消えるだろう。)昨年あたりからはブログの利用も広まって、今ではメールなどと並ぶ重要なコミュニケーション・ツールの中核になっている。テレビの主婦向け情報番組やワイドニュースでも、「ブログを使って5分でホームページが作れます」という特集が組まれたりするぐらいだ。

ブログの登場と普及で、普通の人たちが自分で何か書いてそれを外部に公開するのはきわめて簡単になっている。しかしブログが備えているコメントやトラックバックという仕組みが生み出す特性を無視して、ブログを単に「簡単にホームページが作れるツール」としか考えていない人たちがまだまだ多いように思う。記事に対する批判的なコメントを「荒らし」としか受け止められないくだんのブログ運営者なども、おそらく意識は同じようなものだろう。記事を書いたら書きっぱなし、意見を言ったら言いっぱなしで、それに対する疑問や批判がコメントされたとき対応できないのなら、いっそのことコメントやトラックバックの受け入れを拒否したほうがいいようにも思うけどね。

 これに対しては「じゃあお前はどうなんだ!」という批判も受けそうだけど、僕自身はコメントとトラックバックを原則として受け入れた上で、必要があればコメントに返事を書くし、場合によっては削除も行っている。その基準は一応僕の中にあるが、それをいちいち明文化するつもりはないし、その必要もないと考えている。ブログの運営は、運営者の独裁で構わない。そこには言論の自由などいらない。コメント削除を言論弾圧だなどと言う人もいるが、アホかと言いたい。言いたいことを他人に邪魔されずに書きたいなら、自分のブログを立ち上げてそこで好き勝手にやればよろしい。(2ちゃんねるでもいいけどね。)リンクさえ張ってあれば、「こいつがこんなこと言ってるぞ!」とやり玉に挙げることは可能なはず。外部からのリンクまで、ブログでは規制できません。

 ブログというのはパワフルなツールなのだが、そのパワーに対して無自覚なままブログを立ち上げると、不愉快な思いをしたり、戸惑ったりすることも多いと思う。オンライン・コミュニケーションの初心者が、コメント欄やトラックバックの扱いに過剰反応することも多い。批判的なコメントに「荒らし」のレッテルを張るのも過剰反応なら、自分のコメントが削除されたことを「言論弾圧」扱いするのも過剰反応だ。「ブログとはかくあるべし」という理念が先行していたブログ創成期には、「ブログの運営はいかにあるべきか」という議論が戦わされたりもしかのだが、そうした議論が一段落した後も、次々に新規ユーザーがブログを立ち上げては同じことを繰り返す。

 インターネットが普及するに従って、「メディア・リテラシー」ということが学校教育の中でも重要視されているようだ。「リテラシー」というのは文字の読み書き能力のこと。「メディア・リテラシー」というのはインターネットを使ってものを調べたり、HPを作って意見を発表できる能力のことを指すことが多いようだ。しかしネットに接続して何かを調べたり、自分でHPることだけが、本当の意味での「メディア・リテラシー」ではないはず。ネットで友人が自分の悪口を書いているのを見つけ、学校で相手を殺した小学生の女の子がいた。彼女たちはネットで読んだり書いたりという、最低限の能力は持っていたわけだが、その使い方(読み方と書き方)については能力を欠いていたのだ。小学生の未熟なコミュニケーション能力に対して、インターネットとういツールはパワフルすぎた。

 この事件に対して世間の大人はびっくり仰天したわけだが、インターネットのパワーに振り回されて過剰反応をするという点で、大人と子どもの間に違いはないと思う。コミュニケーション・ツールとして多彩な機能を持つブログでは、そのパワーも桁違いに大きい。そのパワーを使い切れないまま、ツールに振り回されている人はまだまだ多いと思う。ツールは今後もどんどん進化していくだろう。これまで存在していなかったコミュニケーションの上での軋轢が、ブログやそれに続くツールによって社会の広範囲に広がっていくはずだ。

 本当の意味でのメディア・リテラシーが、子どもだけでなく大人にも必要な時代になっている。しかしこれは教わってどうにかなるものではなく、自転車の乗り方を覚えるように、実践を通して時には何度か痛い目にあいながら身につけていくものなのかもしれない。パソコン時代から数えて10数年はネットでのコミュニケーションに関わっている僕など、振り返ってみれば満身創痍だったりするもんな~。

『ユリイカ』2005年4月号特集*ブログ作法


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1995年の霞ヶ関サリン事件以降、専門家を中心として、今後のメディアリテラシー 【media literacy】は、どういう位相になっていくかということが専門家を中心として、一般論として取り扱われるようになっているように見受けられる。 「メディア・リテラシーとは、市民...... 続きを読む

受信 2005/04/21 10:36:27

コメント

 自分の言った事に責任を持つ。
こんな当たり前すぎる事柄が守られないなんて
世も末としかいいようがないです。
って、紋切り型ですいませんね。
結局、ほとんどの人間がインターネットを一種の
「逃げ」のツールとして利用しているのでしょう。
自意識が強すぎて自分の話しはしたいけど、
他人の話には興味がない。そんなまともな「会話」も
できない人間がインターネットに逃げている!!
とばかりも言えないけど、その側面が強いのも
事実だと思います。
・・・・。
 ちょっと書き込んだだけで、「アラシ」と勘違いする
幼稚な人間が蔓延している最近の「この業界」。
ため息と吐き気しか出てこないです。

投稿者: 酔っ払いだぜ (2005/04/22 1:12:04)

> 酔っ払いだぜさん

まあ他人の言葉尻をとらえていちいち文句を言ってくる人というのは実際にいますから、わずらわしければそれを無視してしまうのも(場合によってはコメントを削除してしまうのも)ひとつの対処法だと思います。ブログの場合は、最初からコメントを受け付けない設定にすると、わずらわしさはずっと減ります。(僕は個別対応の方が好きなので受け付けてますけどね。)自分の能力や管理に費やせる時間的余裕に合わせて、いくらでもカスタマイズできるのがブログのいいところです。

それよりも僕が最近気になっているのは、「人が何か物申せば、それにネガティブな反応をする人が必ずいる」という常識がないまま、世間に対して物申す人が多すぎるということです。インターネットもブログもない時代には、そうした人たちが社会的な発言をする機会というのは極めて限られていたので、自分の発言が思わぬ反発を招くという経験をすることはまれでした。ところが今はそうではない。何の自覚もないまま不用意な発言をして、その反応に大慌てするケースは増えていると思います。

「私はこんなこと言った覚えはない」「そんなつもりはない」「意図を誤解している」「曲解だ」といった言葉が、そうしたときには必ず出てくるわけです。僕はそうした言葉を、パソコン通信時代からずっと見てきた。それだけでなく、自分でもそうした泣き言を漏らしたこともあるのですが。でもそうした泣き言が通用しないということを、人は学ぶべきなのです。その自覚がないまま、他人にだけ責任を転嫁するのはミットモナイナ~、と思います。

言葉に対する感受性は人によって違います。「今日はいい天気ですね」という言葉を聞いて不愉快に感じる人は、イマドキの日本に大勢います。世の中にあるありとあらゆる言葉は、他人に不信感を抱かせたり、不愉快にしたり、傷つけたりする可能性を持っているのです。そうした言葉の持つ性質を自覚しながらメディアを通して発言していくのが、メディア・リテラシーだと思うんですけどね。

発言によって反発を招かない方法としては、なるべく慎重に用心深く言葉を選ぶという方法もありますが、最良の方法は最初から何も発言しないことです。それでも何か言わずにいられない人は(僕もそうですけれど)、言葉の持つ理不尽さや暴力性を自覚しなければなりません。自覚した上で、ネガティブな反応には開き直る図々しさと鈍感さを身につけることです。

なお僕も「今日はいい天気ですね」で不愉快になるのですが、その理由は花粉症です。朝起きて空が青いと憂鬱な気分になります。

投稿者: 服部 (2005/04/22 8:58:24)

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