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2005.04.16

牛すじカレーが進化

 牛すじカレーについては以前も記事を書いたことがあるが、今回はその進化系。といっても、単にタマネギを炒めるだけなんですが、これで味がぐんとグレードアップする。今回は牛すじも2度下茹でして、アクと脂を完全にとってしまった。以下、今回作った牛すじカレーのレシピ。

 まず材料。牛すじ500gぐらい。鍋に入る量なら、多少多くても少なくても構わない。タマネギは中サイズを3~4個。これも大雑把なもの。ニンニク数片。今回は他に、長ねぎと生姜を使ったけれど、これはなくてもいいかも。

 作り方。牛すじは鍋で水から茹でる。沸騰すると大量のアクが出るので、これを一度全部ざるにあけて水道でじゃぶじゃぶ洗い、アクを洗い流す。洗った牛すじを一口サイズに切る。まだ脂がだいぶ残っているので、再度鍋に入れて2度目の下茹で。今回僕は、この時に長ネギと生姜を入れてにおい消しにしたけれど、これは気分の問題かも。だいたい3~5分くらい茹でて、再び牛すじをざるあける。

 圧力鍋にオリーブオイルを少し入れて、ざく切りにしたタマネギとスライスしたニンニクを炒める。タマネギが透き通って全体にぐったりした感じになったら、下茹でが済んでいる牛すじを入れてかぶる程度に水加減。圧力鍋にふたをして20分加圧した後、自然放置で減圧するのを待つ。

 圧力が完全に下がったらふたを開けて、水加減を確認しつつカレールーを割り入れる。今回はグリコの「ZEPPIN カレー絶品(辛口)」を使ってみました。これで出来上がり。一番面倒なのは牛すじの下茹で。これさえ終わればあとは簡単です。

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2005.04.15

幸福の黄色いハンカチ

 山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』をテレビ放送していたのでつい観てしまった。もう何度も観ている映画だけれど、それでも観るたびに新しい発見があるのは映画の完成度が高いからだろう。他の仕事をやりながらとびとびに観ていたのだが、好きな場面が近づくとテレビの前に張りついてしまう。高倉健が検問で止められて警察に連れて行かれるシーンから、例の長い回想シーンになり、夕張に向けて車を飛ばしてからラストシーンまではテレビから離れられない。

 夕張に向かうたびの途中で、自分の過去を語る高倉健の話が夫婦の幸せな生活を語っているのに、逆にどんどん陽が落ちて周囲が暗くなっていくという巧みな演出。先にある暗い事件を、これで暗示しているのだ。旅館に着いてから離婚したと話すと、桃井かおりが「待っていられないなんて奥さんはひどい」と憤り、それに対して高倉健が「それは違うんだ。別れようと言ったのは俺なんだ」と離婚の事情を語り始め、それが終わると今度は桃井かおりが「奥さんがかわいそう」と泣きじゃくる会話の組立のうまさ。「まあ人にはいろいろと事情がね」などと言っていた武田鉄也が黙って泣いていたことから、桃井との距離が急接近するというのも自然だ。翌日車が夕張に近づくにつれて、画面のあちこちに鯉のぼりや旗、旗竿など、ラストシーンにつながる小道具がちらちら登場するのも演出だろう。

 ラストシーンで鯉のぼりの竿に黄色いハンカチが見える場面で、ハンカチが見えた瞬間に音楽を鳴らすのではなく、高倉健がハンカチを確認する時まで音楽を我慢しているというのが今回の発見。それによって感動のクライマックスをより盛り上げるのだが、ここはタイミングがあまり遅れても白けてしまう難しいところだ。このラストにつなぐ一連のシーンは、音楽を途中で切って背景音を押し出したり、カメラ位置をいろいろ工夫するなど、それまでになくさまざまなテクニックを使っている。それがあっての最後の感動なのだ。計算高い演出があってこその感動なのだ。

 この映画はずいぶん前からアメリカでリメイクする計画があるはずだが、いまだに実現していない。製作されたのは1977年だからもう30年近く昔になる。さすがに風俗などは古びているので、日本でも意欲のある人がリメイクに挑戦してみてもいいかもしれない。

 今回の新発見の目玉は、高倉健の部屋を倍賞千恵子が訪ねるシーンが、黒澤明の『赤ひげ』で山崎努の長屋を桑野みゆきが訪ねる場面をそっくりなぞっていたこと。好演出は模倣されるというひとつの例だろう。

幸福の黄色いハンカチ
高倉健 山田洋次 倍賞千恵子 桃井かおり


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2005.04.14

カルトか異端か?

 キリスト教系のカルトと、キリスト教系の異端を同一視しているクリスチャンは日本に多いようだ。これまで日本で社会問題になってきたキリスト教系のカルト教団は、エホバの証人や統一教会、あるいはイエスの方舟にしろ、どれも伝統的なキリスト教からはずれた異端のグループとされてきた。ここから「問題を起こす教会=異端」考え方が広まり、さらには「問題を起こすのは異端の証拠」「正しいキリスト教を守っている教会はカルトにならない」という思い込みが生まれているように思う。

 しかしここで注目すべきなのは、エホバの証人や統一教会は社会的にも「カルト」とされているのに、明らかにキリスト教系の異端宗派であるモルモン教が、日本では今のところカルト扱いされていないことだろう。これは日本のモルモン教会が、信仰の面では伝統的なキリスト教と距離をおきながらも、社会的に許容される範囲で布教活動を行っている結果なのではないだろうか。(アメリカのモルモン教会は分派した小集団の中に過激なものがあり、中には犯罪的なものもあるという。)モルモン教はキリスト教の異端だが、日本ではカルト教団とみなされない。

 じつは日本では、詐欺や脅迫まがいの献金強要、信者に対する肉体的・精神的な暴力、信者の子どもに対する虐待など、あきらかに犯罪となるような反社会的行為を是認している集団だけが、カルト宗教として糾弾されているのだ。先日読んだ「『信仰』という名の虐待」には、カルト教団からの脱会・回復支援を行っている専門家の、こんな声が紹介されている。

われわれがある宗教団体や政治団体を問題にするのは、それらが個人や社会に対して、刑事であれ民事であれ違法な活動を組織的に行っているその一点だけなのであって、われわれはそれらの思想・信条については立ち入らないし、立ち入る必要もない。(P57)

 つまりカルト問題に取り組んでいる人権派の弁護士や警察関係者は、教団の中の「違法行為」にしか興味がない。つまりはこれが、そうした専門家の言う「カルト」であり、それ以外の宗教団体については、そこでとんなに突拍子もない信仰が語られていても、それは「信教の自由」の範囲内として社会的に許容するということだろう。この点で、異端からの脱会運動を行っているキリスト教関係者と人権活動家の歩調は必ずしも一致していない。

 じつはアメリカでは1970年代から、「カルト」という言葉の用法に変化が現れ、それが定着しているのだ。エンカルタの「カルト」の解説によると、もともとの意味は以下のようなもの。

カルトcultという語は、「耕作、世話、崇拝、祭祀(さいし)」などの意味をもつラテン語のクルトゥスcultusに由来する。そこから、なんらかの崇拝対象を中心に構成された信仰と儀礼の組み合わせという意味でもちいられ、欧米の宗教社会学では宗教集団類型の呼称のひとつとなった。

 しかしアメリカでの用法はそれとは少し違う。

キリスト教を正統とする伝統のあるアメリカでは、キリスト教以外の外来宗教をカルトとする用語法があり、さらに今日一般に流通している、組織が未成熟で社会と緊張関係にある宗教集団をカルトとする立場が生まれた。

 こうした用法変化のきっかけになったのは、1969年に起きたマンソン・ファミリーによる殺人事件(シャロン・テート事件など)や、78年の人民寺院事件がきっかけらしい。その後も93年のブランチ・デビディアン事件や、97年のヘブンズ・ゲート事件など、閉鎖的な宗教集団による事件が続き、現在アメリカでの用例は、おおむね以下のようになっていという。

カルトとは、特定の人物崇拝、集団の閉鎖性、教義や実践の反社会性などを指標とする集団であり、「宗教」とは区別される語である。

 ところでフランスには「反セクト法」というものがある。「セクト」はフランスで「カルト」と同義語なのだが、そこでは「セクト=カルト」について以下のように定義されているという。

第一条
「法的形態または目的の如何を問わず、活動に参加するものの心理的または身体的依存状態を作り出し、維持し、利用しようとする目的または効果を有する活動を続けるすべての法人は、以下の述べる犯罪のいずれかについての刑事上の確定した有罪が、法人そのもの、あるいは法人の法律上または事実上の幹部に対し宣告されたときは、本条の定める手続きに従い、解散が宣告されうる。」 (引用元

 法律の対象が宗教に限定されていないのは、エンカルタが解説するように、カルトが宗教とは限らないからだろう。いずれにせよ、ここでも取り締まりとなる「セクト=カルト」は犯罪を犯したものに限られる。『思想・信条については立ち入らないし、立ち入る必要もない』という日本のカルト専門家の意見は、こうした欧米のカルト対策に沿ったものと考えることができる。

 日本で「カルト」という言葉が一般に注目されたのは、オウム真理教の一連の事件が明るみに出たときからだった。あるいは統一教会による霊感商法なども、反社会的な事件として注目を浴びた。「カルト」という言葉は「集団が持つ反社会性や犯罪性」という実態と共に定着した新しい日本語であり、その意味合いはアメリカの「カルト」という語の用法や、フランスの「反セクト法」が取り締まりの対象にしようとしている集団と重なり合っている。

 (1)宗教社会学におけるもともとの意味、(2)欧米でキリスト教以外の新宗教(異端宗派も含む)や外来宗教をさす用例、(3)さらには「宗教」という枠組みをこえて、特定の思想信条によって反社会的な犯罪行為をする閉鎖的小集団まで、「カルト」というのは使われ方が何通りもあることに注意すべきだろう。

 (1)の意味合いで「キリスト教もカルトである」とか「すべての宗教はカルトである」と言うのは間違いではないかもしれないが、(2)の意味で話をしているときにそんなことを言っても話の焦点があわなくなるばかり。また(2)の示すカルトから信者の脱退を支援しているキリスト教関係者が、(3)の「反社会的カルト」を問題視する専門家と話が合わないのも当然のこと。最近は(3)の意味で「カルト」を使うことが多く、宗教学者も(1)の用法は避けようとするそうだ。

 誰と話をするかで「カルト」の概念は変化する。そのあたりを自覚しながら、「カルト」という言葉を慎重に使う必要がありそうだ。なおカルト研究家の間では、1985年にアメリカで開催された「カルト問題―学者と識者のための協議会」で採決された次のような定義が広く受け入れられているという。(「教会がカルト化するとき」ウィリアム・ウッド いのちのことば社 P13)

カルトとは、ある人間か、観念か、物に対して、過度の忠誠心・献身を現し、非倫理的な方法で人を操作したり、高圧的な手段により人を説得したり、コントロールしたりしようとする集団、あるいは運動である(その方法とは、友人や家族から隔離させること、衰弱させること、暗示感応性や服従心を高めるための特別な手段の使用、グループによる強い圧力、情報統制、個性の抹消や批判的な考えの停止、グループに対する依存心やグループを離れることに対する恐怖心を助成することである)。これらの手段は、グループの指導者たちの目的を推進するためのものであり、実際に信者やその家族、および社会に損害をもたらす(あるいはその可能性を秘めている)ものである。

 この定義の中にも『信者やその家族、および社会に損害をもたらす』という反社会性と、その可能性が含意されているが、教義の正統性は問われていない。

 教義の正統性は、カルト化の妨げにはならないのだ。正統派のキリスト教会が信者に正統派の教義を教え込むために、カルト的な手法を使うことは十分にあり得る。終末や地獄を過度に強調して信者に恐怖感を与えたり、他の教会を批判して自分たちの教会を絶対化する、教会や牧師への忠誠を求めて他の教会への転会を認めない……。それはたとえ異端でなくとも、もはや立派なカルトです。

カルト宗教のトラブル対策―日本と欧米の実情と取り組み
山口 広 平田 広志 中村 周而 紀藤 正樹


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09:25 午後 | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック

2005.04.13

聖神中央教会のまとめ

 サーバーから削除されてしまった聖神中央教会のホームページが、ジオシティーズにコピーしてあるのを見つけた。(http://www.geocities.jp/church_of_holy_god/toppage.htm)教会側が移動させたのか、気の利いた人が削除前にミラーリングしたのかは不明。僕はたぶん後者であろうと推測している。(既にリンク切れを起こしているページがあることが、それを匂わせるのだが……。)今となっては教会の様子を知るための貴重な一次資料として、こうしたサイトは貴重なものだと思う。また削除される可能性もあるので、気になる人はローカルにコピーしておいた方がいいかも。

 「『信仰』という名の虐待」の著者パスカル・ズィヴィーさんが主催する、マインド・コントロール研究所のHPや、そのリンク先にある「主の十字架クリスチャンセンター脱会者連絡ページ」を見ると、やはり同様の事件が他にも起きていることを感じる。先日はメールのやりとりをしていた方から、韓国生まれのタラッパン伝道運動というものを教えていただきました。これもかなり強烈。ごく普通のプロテスタント教会が、外来の運動に取り込まれて分裂していく様子が書き綴られた笹沖聖約キリスト教会の「タラッパン関係資料のページ」は、読んでいて胸が苦しくなる。タラッパンについてよく知らないというキリスト教関係者は、三郷福音教会のページで資料を入手し目を通しておく方がいいと思う。こういう問題は、事前に免疫をつけておいた方がいいと思うので……。

 僕自身はクリスチャンではないのだが、子どもの頃から教会に通ってきたし、今も時々教会に行く。周囲にもクリスチャンが多い。両親はクリスチャンで、親戚にもクリスチャンが多い。僕は自分で「キリスト教シンパ」と名乗ることもあるし、基本的にキリスト教は好きだ。ただし僕が直接知っている教会は長い歴史を持つ伝統的な教会ばかりで(日本基督教団のプロテスタント教会)、それはたいてい年寄りばかりで保守的で元気がないという意味でもある。(日本基督教団の教会がどこもそうなのかは知らないけどね。)だから問題を起こすような「激しい教会」や「偏った教会」というのは他人事だったわけだけれど、聖神中央教会の事件が全国に報じられたからには、「あれは僕には関係ないこと」とも言っていられないような気がした。

 クリスチャンではない僕は、「あれは異端が起こした事件だから」と逃げを打つわけにはいかない。日本におけるキリスト教の事情についてまるで何も知らないわけではないので、一般マスコミのように「キリスト教系の新興宗教」とか「宗教の名を騙ったカルト組織」と言うわけにもいかない。(キリスト教と映画についての本を書いたり、キリスト教についてのムックに原稿を寄せたりもしているしね。)あれはやはりキリスト教だし、キリスト教の中にはそうした事件を起こしうる可能性があるということを自覚しておかねばなるまいと思う。

 とりあえず現時点で気になるのは、聖神中央教会が行っていた「普通のキリスト教会としての活動」までが、なにやら怪しげなセックス・カルト教団の証拠であるかのように報じられていることだ。キリスト教は伝統的に幼児教育に力を入れているため、子どもたちが教会に集まるのはごく当たり前のこと。それを「親の信仰に子どもを巻き添えにした」と非難しはじめると、教会で行っている子どもたちのための教会学校や日曜学校などの活動はもちろん、世の中にあるキリスト教系の幼稚園や保育園、私立学校などはすべて非難の対象になってしまう。教会での「お泊まり会」は僕も経験があるぞ。キャンプや遠足などの活動もある。入信儀礼である洗礼を受ける際に、全身を水につける「浸礼」をとる教会も多いし、その際は当然水着を着ることもあるし、着替えを用意しておくこともあるだろう。

 こういうキリスト教の習慣などは、外国映画を頻繁に見ている人なら「あ~、あれね」と思い当たる部分もあると思う。例えば『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』には、ヒロインと結婚する恋人が礼拝堂の祭壇前に持ち出した子供用のビニールプールで洗礼を受ける場面が描かれる。(この映画に登場する教会はギリシャ正教。)同じようなことは当然日本の教会でも行われているのだが、普通の日本人は熱心な映画ファンでも、なかなかそれに気づかない。「外国の教会」と「日本の教会」は違うものだと思っているらしい。またはマスコミ関係者が、映画をそれほど観ないのかもしれないけどね。

 日本のキリスト教人口は1%未満だそうだが、数が少ないとはいえ日本社会の中にちゃんと存在しているのです。ところがその実態が、一般にはまるで知られていない。映画やドラマの中に教会が登場するのは結婚式の場面くらい。それ以外の場面にクリスチャンが登場すれば、それは理想化されたクリスチャン像をなぞるだけか、反対に、口先ではきれいごとを言うが実態が伴っていない偽善者のように描かれることが多い。描かれ方が、じつに表面的で図式的なのだ。

 映画やドラマの中のクリスチャンというのは、扱われ方としては「障害者」と同じなんだと思う。日本の映画やドラマの中には、障害者がほとんど登場しない。登場したらしたで、「障害に負けず健気に生きている人たち」のような扱いになる。「清く正しく美しく」という好意的に美化されたイメージに塗り込められてしまう点で、映画やドラマの中の障害者とクリスチャンは瓜二つだ。それでも最近は障害者の問題や、障害者を持った家庭の問題を、なるべく等身大に描こうとするドラマも作られてはいる。でもキリスト教は「宗教」がらみなので、それができにくいようだ。かくして日本の映画やドラマに、ごく普通のクリスチャンがいる場所はなくなる。

 とてくのん.comが「キリスト教会に求められるものとは」という記事の中で、『ワタシは教会のガラス張り化を求めたいと思います』と主張しているのに僕は賛成。でもこうした「教会内部」から社会に向けた働きかけと同時に、教会の外の社会の側から、放っておくと閉鎖的になりがちなキリスト教会という場所にも目を向けて働きかけてほしいな~と思ったりもするのです。それはテレビドラマにごくごく普通のクリスチャンが登場することかもしれないし、テレビの報道番組で今どきの普通の教会を取材してくれることかもしれない。またそうした外部からの働きかけがあったとき、教会の側もそれにはこころよく協力してほしいのですが……。

マイ・ビッグ・ファット・ウェディング
ニア・ヴァルダロス ジョエル・ズウィック ジョン・コーベット レイニー・カザン


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2005.04.12

最近観た映画

 先週から少しずつ映画を観ているのだが、映画瓦版に感想を書く暇がないので、とりあえずタイトルとメモ風の感想だけを書いておく。

 『プライド/栄光への絆』 テキサスの高校フットボールチームが州大会での優勝を目指す実話の映画化。面白かったし、感動的でもある。

 『ビートキッズ』 岸和田出身の少年がブラスバンドで太鼓を叩き、その後はロックバンドの活動に乗り換える。ン版と後半はそれぞれ面白いのだが、話がうまくつながっていない二部構成になってしまった。

 『PTU』 ジョニー・トウ監督の手による、きわめてリアリスティックな警察ドラマの皮をかぶった「ほら話」。

 『シャウト オブ アジア』 アジアのミュージシャンたちが集まってひとつの音楽を作るまでを描くドキュメンタリーだが、全体の構成が悪い。

 『ヘアスタイル』 あまり面白いと思わなかった。3部オムニバスだが、2番目の実験的なエピソードがユニーク。でもどれも、深夜のテレビドラマ程度のできではないかな~。

 『HINOKIO』 登校拒否になった少年が、遠隔操作のロボットを介して学校に通い始める。未整理で未熟なところもあるけれど、みずみずしい感覚は買いだ。

 『映画 ふたりはプリキュア MaxHeart』 テレビを見ている人たちのための特別版以上の意味はない。

 『彼女を信じないでください』 脚本がよくできていて、最初から最後まで楽しめる。女詐欺師が純朴な男にほれて……という話は、スタージェスの『レディ・イブ』を連想させる。

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2005.04.11

宮崎駿の位置づけ

 宮崎駿監督が、アメリカのタイム誌の「THE 2005 TIME 100」に選ばれた。Artists & Entertainers部門24人の中のひとりとしての選出だったのだが、他の顔ぶれを見ると、クリント・イーストウッド、マイケル・ムーア、クエンティン・タランティーノなと、結構な顔ぶれが揃ってる。ヒラリー・スワンクやジェイミー・フォックスなどは、単にアカデミー賞の受賞者がそのままという気もするけどね。チャン・ツィイーはすごいな~。ジョニー・デップはなぜ今このタイミングなんだろう。いろいろ考えさせられるリストだな~。

 僕自身は宮崎駿の現時点での評価に関して、「もう過去の人」という印象を持っている。だからこのリストを「世界でもっとも影響のある人物100人」などと言われると、「影響があった」と過去形の方がいいんじゃないかと思ってしまうんだけど……。

 リストの中にアート・スピーゲルマン(Art Spiegelman)の名前があるのも、ちょっと意外というか、驚いた。アメリカのアングラコミック作家。「マウス―アウシュヴイッツを生きのびた父親の物語」はもうずいぶん前の作品で、それ以降は邦訳もないはず。Amazonを検索したら、最新刊が「はだしのゲン」の英語版「Barefoot Gen: Life After the Bomb」になっていたのにはもっと驚いた!

Maus: A Survivor's Tale : My Father Bleeds History and Here My Troubles Began
Art Spiegelman


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09:35 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

2005.04.10

キリスト教への誤解

 聖神中央教会の話を続ける。とてくのん.comからのトラックバック経由で、Barl-Karthさんの日記を知り「キリスト業界は村社会(聖神中央教会)」という記事を読んだ。とてくのんさんも、Barl-Karthさんも、僕も、聖神中央教会がマスコミで言われているような「キリスト教系の新興宗教団体」ではなく、紛れもない「正統派のキリスト教会」であるらしいという認識を持っている。少なくとも現時点で、教会の異端性を示すいかなる情報も存在しない。

 ではなぜマスコミは、この教会を「新興宗教」と呼ぶのだろうか? 最近のニュースを検索すると「新興宗教」という表現は減って「宗教法人」という客観的な記述が増えているようだが、地元の京都新聞などは今も「新興宗教」や「新興宗教法人」という表現を使っている。(ところで「新興宗教法人」とはなんだ? 「新興の宗教法人」という意味かな? 神社仏閣が多い京都だと、明治以降のキリスト教はすべて「新興の宗教法人」になりそうだけど。)Yahoo!ニュースで検索すると、この教団を「キリスト教系」と伝えていた記事は、事件発覚直後の4月7日が最後。あとはすべて「新興宗教」や「宗教法人」になって、報道からは「キリスト教」の文字が消えてしまった。

 どうもこのニュースを伝える側に、「聖神中央教会はまともなキリスト教会ではない」「普通のキリスト教会ならこんな事件は起こすはずがない」という思い込みがあるのではないだろうか。でもそうなのか? 少女へのレイプは極端だと思うけれど、同じように牧師の専横がまかり通っている「普通のキリスト教会」は、日本中いたるところにあると思うけどなぁ。

 Barl-Karthさんの「キリスト業界は村社会(聖神中央教会)」という記事の続報や、とてくのんさんの別の記事と、そこからリンクされている「信仰という名の虐待」を読むとそれが確信できる。正統派のキリスト教会といっても、その中身は玉石混淆。いい教会もあれば、だめな教会もある。中にはひどい教会もあるわけです。これはどの教派ならよくて、どの教派がだめという単純なものではない。だから「異端」の問題よりもずっとややっこいしのです。

 日本人なら誰でも常識として、寺の住職の中には立派な人がいる一方、生臭坊主やエロ坊主が少なからずいることをよく知っていると思う。それと同じように、キリスト教会の中にも生臭い人がいるのです。そんなのは当然のこと。ところが日本人はどういうわけか、キリスト教にはそういうことがないと勝手に思い込んでいるふしがある。キリスト教に対する好意的な誤解です。こうした好意的誤解が、聖神中央教会の肩書から「キリスト教」が取れてしまった原因のひとつにもなっているのではないだろうか。

 ところがこの「キリスト教徒は立派な人たちだ」という好意的な誤解が、日本のごく普通の人々を教会から遠ざけている。教会というところが、何となく敷居の高いところに感じられるのです。何らかの問題を抱えて、あるいは好奇心から教会の門をくぐろうとする人たちは、まずこの「誤解」によって気後れする。そして教会の実態を知ってガッカリする。「なんだ、キリスト教というのは立派なものだと思っていたら、そこらの普通の人たちと何も変わらないぞ。聖書には立派なことが書いてあるけど、クリスチャンというのは口先ばかりの偽善者だ」ということになる。でもこういう教会こそが、じつはまともな教会なのです。

 世の中には日本人が「キリスト教会」に対して抱く好意的な誤解を、そのまま受け止めてくれるような教会があるわけです。牧師は熱心で、信者たちも親切。聖書の教えを厳格に守って、清く正しく美しく生きてくるひとたちが、祈ったり賛美歌を歌っている教会がたくさんある。でもむしろ、こういう教会の方が危ないんだよね。おそらく聖神中央教会も、そうした「清く正しく美しい」教会だったのでしょう。

 僕は周囲にクリスチャンが多いこともあって、「キリスト教徒は立派な人たちだ」という思い込みは最初からない。教会というのは普通の人たちの集まりだから、普通の世間で起きることはたいてい何でも起きる。そこではいいことも起きるし、悪いことも起きる。でも「悪いこと」があるからといって、そこがだめな教会ということにはならないし、ましてや「キリスト教ではない」なんてことにはならないのです。

 聖神中央教会がキリスト教でもいいじゃないの。むしろ「キリスト教=清く正しく美しく」という誤った認識を改めてもらった方が、日本のキリスト教発展のためにはいいような気がするけどな~。

「健全な信仰」と「カルト化した信仰」
ウィリアム・ウッド


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