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2005.04.23

年金値上げにため息

 国民年金の振替額通知書というのが郵送されてきた。これまで1ヶ月13,300円だった年金保険料が、月額13,580円に値上がり。1年間の合計額は162,960円。まったくため息が出る。しかも値上げはこれで終わらない。今後も毎年保険料は値上がりして、2017年に16,900円になるところまでは決定済み。しかしこれで値上げが止まることは考えられず、自分自身が年金受給者になる年齢に達するなり、年金制度が抜本改革されて基礎年金が税方式に変更されるまで、保険料の値上げに突き合わされることになるのだと思う。

 僕は二十歳で就職してから未納期間なしにせっせと年金保険料を支払っているのだが、これが最終的に自分にどれだけ戻ってくるかというと、まあほとんど戻ってくることはあるまいという予想を立てている。現在高齢年金の支給額は1年間に794,500円なので、月額に換算すると7万円に満たない金額。支給額が増えることは考えにくいが、保険料だけは確実にアップしていく。社会保険庁の出生率予測が「希望的観測」に傾いていることは誰でも知っているから、おそらく2017年を待つことなく、保険料のさらなる値上げが行われるはずだ。

 社会保険庁のホームページを見ると、国民年金のメリットは高齢年金だけではないことが盛んにアピールされている。それは障害年金と遺族年金の存在だ。しかし遺族年金は、死亡した者によって生計を維持されていた子のある妻と子しか受給できない。夫婦共働きなら遺族年金はゼロ。子どもがいなければ、やはり年金はゼロだ。でも夫が自営業で妻がまったく職を持たない専業主婦というケースは、僕の周囲ではあまり見かけない。少なくともこの制度は、僕にとっては魅力ゼロだな~と思う。

 障害年金はありがたいけれど、これもかなり重度の障害にならないと支給されないようだ。厚生年金なら障害の程度が3級まで支給される年金が、国民年金では2級までしか支給されない。そうなるとやはり、確実に自分が受け取れそうなのは老齢年金のみだ。

 老齢年金は終身保証なので、支払った保険料の元を取ろうとすればがんばって長生きするに限る。しかし老齢年金だけではとても生活できないので(月額6万円では家賃も払えない)、国民年金基金で保険料を積みましたり、民間の年金型保険にも加入したり、せっせと貯金したりして、老後の生活に備える必要がある。しかし貯金は使えば減るものなので、あまり長生きするのも考えものだ。生活のことを考えると、年寄りは適当なところで死ねということか。

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2005.04.22

お呼びでない広告

 もともとキリスト教関係の本を読むことが多いのでこれまでも縁がないわけではなかったのだが、このところAdSenseでキリスト教関連の広告が大量に配信されてくるようになった。聖神中央教会がらみで、教会やキリスト教について書くことが多かったからだろう。ところが配信されてくる広告の多くは、伝道熱心な福音派の団体が出稿している様子が見て取れるのだ。困ったな~。

 福音派のすべてが悪いとは言わないが、中にはいろいろと問題の多い団体もあるようだ。問題とは、よく言えば信仰に熱心すぎるほど熱心なことであり、悪く言えば、キリスト教系カルトに隣接した団体もあるという意味。聖神中央教会も、そうした教会のひとつだったはず。もちろん広告主がどんな団体なのか、僕自身がいちいち確認したわけではない。僕の福音派に対する警戒感は、ほとんどが食わず嫌いみたいなものなのかもしれない。ヘンな教会よりも、まともな教会の方が多いことはわかってる。でもね~。やっぱり警戒はしてしまうのだな。

 そもそも困っているのは、福音派と僕とでは、キリスト教についても聖書についても、考え方や立場が全然違うじゃん!ということ。だいたいからして、僕は信仰については無関心。聖書解釈や神学については、リベラルな学者たちに共感する立場。でもそんなことお構いなしに、AdSenseからは保守的な教義を説く福音派の広告が送りつけられてくる。

 AdSenseは記事の中の特定のキーワードに反応しているだけで、記事の中身を読んでその主張を分析しているわけではない。だから特定の事柄に賛成していようと反対していようと、文中にその単語さえあれば機械的に反応して広告を出したり止めたりする。記事内容と正反対の立場からの広告も入れば、NGワードがあるという理由だけで、記事内容に関係なく広告の出稿が止められてしまうこともある。理屈ではわかってるんだけどさぁ。

 今のところフィルタリストを作って排除するほどのことではないと思っているのだけれど、あんまりバランスが悪くなるようならそれも考えなければならないのかな~と思ってます。

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2005.04.21

星野之宣の不思議

 先日六本木の青山ブックセンターで、星野之宣の自選短編集「Midway」を見つけた。漫画家生活25周年記念とのことだが、この本が出たのはもう5年前。今年は漫画家生活30周年だという。一時期作品発表のペースが落ちたこともあったが、最近はまたものすごい勢いで作品を描いているし、主要な作品はほとんど単行本や文庫になって現役流通しているのは、それだけファンが多いし、作品が読み継がれている証拠だと思う。

 僕自身の星野之宣体験は、おそらく「はるかなる朝」(手塚賞受賞作)を少年ジャンプで読んだのが最初だと思う。その後はジャンプ連載時代に「ブルーシティー」も少し読んだような気がするが、これらはすべて散髪屋の待合室で読むなど偶然の積み重ねであって、本格的に単行本を買い集め始めたのは、短編集「サーベルタイガー」が出たころだと思う。ヤングジャンプで断続的に掲載されていた「妖女伝説」あたりが、僕の星野熱の最盛期かな。この頃には主要な作品はほとんど読んでしまったはず。

 しかし「ヤマトの火」の連載中断でその熱が少し冷めて、その後同じアイデアを練り直した長編「ヤマタイカ」までは追いかけなかった。引っ越しなどもあって買い揃えた単行本も処分してしまい、その後はぽつりぽつりと雑誌連載などを立ち読みしている程度だ。古代史に材をとった「宗像教授」シリーズに至っては、諸星大二郎の「妖怪ハンター」シリーズの二番煎じのような気がして、まったく興味を持てない。(これはこれで、現在の星野之宣のライフワークではあるのだろうが。)

 単行本が次々に版を重ねていることから考えても、星野之宣人気というのは根強いのだと思う。しかしこれまで、どういうわけかその作品が映像化されることはあまりなかった。allcinema ONLINEで調べると、「宗像教授の伝奇考」が高橋秀樹主演で一度ドラマ化されている様子。「2001夜物語」も一度OVAとして映像化されたことがあるようだ。しかしそのあとが続かない。(「宗像教授」はシリーズ化されるとの話もあるが……。)

 先日テレビで放送された今敏監督のアニメ映画『千年女優』は、星野之宣の連作短編集「妖女伝説」中の「月夢」という短編に強く影響を受けている。このぐらいの作画レベルで大人向けのSFファンタジーとしてきちんとアニメ化すれば、ものすごくいいものができるような気がするんですけどね~。1話30分か40分ぐらいで、時間をかけて数本のシリーズを作り、最初は深夜テレビあたりで放送した後で3本ぐらいまとめて劇場公開したり、DVDにして発売すればきちんと売れるような気がする。アニメなら海外にも販路が開けるし、ハードSFでありながらラブストーリーもたくさんあるから女性向けのマーケットも期待できるよ。

 僕は「残像」を映像化してほしい。月で死んだひとりの女性が残した1枚の写真をめぐるミステリーから、最後に男と女のラブストーリーになる話。これはいつ読んでも泣ける。子どもの頃からしばしばUFOを目撃する女性が、宇宙飛行士の青年と恋に落ちる「遠い呼び声」もいい。(これはどちらも「Midway」に入っているぞ。)「2001夜物語」は英語版も発売されているので、海外から出資をあおいでたっぷり予算をとることも可能かも。

 これまであまり作品が映像化されていないことを考えると、作品の完成度が高すぎてしり込みしてしまうのだろうか。それとも、今はSFが商売にならないと判断されているのかな。もっとも作者の星野之宣本人が、自作の映像化にあまりそれに乗り気でない可能性もあるけどね。

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2005.04.20

小林政広監督カンヌへ

 小林政広監督の『バッシング』という映画が、今年のカンヌ映画祭でコンペ部門に出品されることになったという。でもニュースでこのことを知っても、「小林政広って誰なの?」という人がほとんどだと思う。中には「ああ『人間の条件』や『東京裁判』の監督ね」と思う人がいるかもしれないけど、それは小林正樹監督ですからお間違えなく。(小林正樹監督は9年に前に亡くなってます。)

 僕は小林政広監督の映画をデビュー作の『CLOSING TIME』(96年)以来、ビデオ市場に直行してしまった『La Coiffeuse ─女理髪師の恋─』(発売タイトルは『完全なる飼育/女理髪師の恋』)を除いて全部観ているはず。これまでに劇場公開されたのは、『CLOSING TIME』、『海賊版=BOOTLEG FILM』(98)、『殺し KOROSHI』(00)、『歩く、人』(01)、『フリック』(04)だ。映画瓦版にこれら全作品のレビューがあるので、内容や感想などはそちらをご覧あれ。たいていどの作品も北海道が舞台で、映画話法としてもかなり凝った作りをする、作家性の強い監督だ。映画が特有のニオイを持っているので、それが気に入ると次々に観たくなるはず。(日本映画データベースによれば他にも『一週間 愛欲日記』や『女子社員愛欲依存症』『実録 極東マフィア戦争 暗黒牙狼街 BOSS』などの監督作があるようだ。)

 小林監督は『海賊版=BOOTLEG FILM』『殺し KOROSHI』『歩く、人』を3年連続でカンヌ映画祭に出品しているのだが、どれも「ある視点」や「監督週間」などコンペ外にとどまっていた。小林監督は前作『フリック』がどこの映画祭でも受け入れてもらえなかったことに落胆していたようなので、今回の新作がコンペに出品されるのは喜びもひとしおだろう。

 『バッシング』については情報があまりにも少ないため(マスコミ試写が行われているのかすら僕は知らない。最近はすっかり映画業界の外側の人になった気分だ)、ネットで検索したら小林監督本人が書いているブログを見つけた。「ボクの映画渡世帖 小林政広」というのがそれ。この中でいままさに書かれているのが「『バッシング』は、こうして作られた」という記事だ(第1回目はここ)。映画の内容はやはりさっぱりわからないのだが、映画を作るのはいろいろと苦労があるなぁ、と実感できる日記(というか回想談)になっている。

 『バッシング』に主演している占部房子という女優も、ほとんどの人が知らないと思う。じつは僕もよく知らない。小林監督の『歩く、人』と『フリック』に出演しているというのだが、あまり強い印象がない。日本映画データベースによると『流★星』と『アンテナ』にも出演しているそうで、僕はどの映画も見てるんだけどな~。朝ドラの「ほんまもん」も観てたんですが……。どうも舞台中心の人みたいです。たぶん映画を観れば、「そうか、この人か!」ということになるんだろうけどね。まだ名前と顔が一致してません。なんだか悔しいな。

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2005.04.19

メディア・リテラシー

 ここ数日で僕が直接関わった出来事と、そこから思ったことを記しておく。まずは出来事の概略からだ。

 聖神中央教会の事件関連で「カルト」について調べていたところ、「随想 吉祥寺の森から」というブログで興味深い記事とコメントを見つけた。「カルトと非カルトとの境界線とは?」という記事の中で使われている「カルト」という言葉の意味や定義について、読者から疑問が出されていたのだ。僕自身はこの時点で「カルト」について調べる前だったのこの記事にはコメントしなかったのだが、続く「「カルト」概念は広くとって考えるべきだ」という記事で同じようなコメントの応酬があった際は「カルトを批判する前にその定義をはっきりさせるべきだろう」という意味のコメントをした。

 このコメントへの返信ではないが、先方のブログでは「なぜ、あらかじめカルトへのケア体制を整えなかったか」という記事で、「カルト」の意味を細かく定義してきた。だがその内容があまりにも穴だらけに思えたため、記事に対するコメントとして僕はそれを指摘した。しかしこれを先方は、自分の運営するブログに対する悪質な非難中傷と受け止めたらしい。いささか感情的な言葉がコメントとして返されてきたが、再度こちらから「カルトの定義」を求めたところ、コメントではなく「一時的、瞬間的にカルトに堕する危険」という別の記事の中で、より細かく「カルトの定義」を行うに至った。

 問題はそのあとに起きる。先方が「なぜ、あらかじめ~」のコメント欄で僕を非難するような物言いをすることに少々気分を害していた僕は、再度同じ記事のコメント欄で先方のコメントの揚げ足を取るようなことを書いた。これは相手が既に相当不愉快な気分を味わっていることを承知の上で、その気分をさらに逆撫でして挑発してやろうという気持ちもあってのことだ。この挑発にまんまと乗った先方は、このコメントに対してさらに感情的な返答を返してきた。そしてそれ以降は、僕からのコメントを次々に削除するという防衛手段に出たのだ。

 削除されたコメントで僕が書いたのは、だいたい次のようなことだった。

 HPやブログを外部に公開している以上、そこでは自分が想定していなかった読者からの反応が返ってくることがあり得る。たとえそれが誤解や無知によるものだとしても、公開されたサイトの運営者はそれらを甘んじて受け入れねばならない。ブログのような文字だけの媒体では、そこに書かれた内容で書き手のパーソナリティや見識が判断されるので、「私のことをよく知りもしないくせに」とか「見ず知らずの他人のくせに」などと文句を言うのは、書き手としては甘ったれている証拠である。公開された場で自分の意見を表明する際は、書き手としてそれなりの覚悟が必要ではあるまいか。

 ……とまあ、そんな内容のことに、多少の皮肉を交えて書き込んでおいたのだが、これはコメント欄から削除されてしまった。その後も先方はあれこれと僕を非難する記事やコメントを書き加えたりしているが、僕の興味は既にそこにないのでいよいよ本題に入る。それはオンライン・コミュニケーションにおける、メディア・リテラシーという問題だ。

 上に書いた「書き手の覚悟」という問題は、僕自身が自分のHPを運営したり、ブログでものを言ったりする以前に、じつはパソコン通信時代から考えていることだ。パソコン通信というのはHPやブログ以上に、純粋に文字だけでコミュニケーションする世界だったため、細かな言葉の取り違えやトゲのある言葉の応酬から、感情的なバトルに発展することがしばしばあった。インターネットがまだ普及しておらず、ネットワークコミュニティとしては特定業者が運営するパソコン通信しかなかった時代だった。不愉快な目にあっても他に場所を移すこともできず、バトルは小国の内戦のように、そのコミュニティの参加者全員を巻き込み、深刻化し、長期化することがあった。バトルが拡大した結果、管理者が運営を放棄してコミュニティが瓦解することすらあったのだ。

 しかしそれも、今から考えればいい時代だった。そこでは参加する人たちの間で、自分の言葉に対して責任を持たねばならないという最低限のルールが共有されていた。言葉だけのコミュニケーションだからこそ、その言葉には重みがあった。(と、僕はNIFTY-SERVEで自分が参加していたいくつかのフォーラムを念頭に置いて話をしている。具体的にはFというシスオペが運営していた頃の映画フォーラムなど。よそではもっと大変なフォーラムもあったようだが、僕は直接は知らない。)しかしそれはもう、遠い昔話なのだ。

 10年ほど前からオンライン・コミュニケーションの主流はインターネットになり、パソコン通信は姿を消してしまった。ニフティには今でもフォーラムというコミュニティサービスが存在するものの、その中身はすかすかでもはや見る影もない。(遠からずニフティからはフォーラムそのものが消えるだろう。)昨年あたりからはブログの利用も広まって、今ではメールなどと並ぶ重要なコミュニケーション・ツールの中核になっている。テレビの主婦向け情報番組やワイドニュースでも、「ブログを使って5分でホームページが作れます」という特集が組まれたりするぐらいだ。

ブログの登場と普及で、普通の人たちが自分で何か書いてそれを外部に公開するのはきわめて簡単になっている。しかしブログが備えているコメントやトラックバックという仕組みが生み出す特性を無視して、ブログを単に「簡単にホームページが作れるツール」としか考えていない人たちがまだまだ多いように思う。記事に対する批判的なコメントを「荒らし」としか受け止められないくだんのブログ運営者なども、おそらく意識は同じようなものだろう。記事を書いたら書きっぱなし、意見を言ったら言いっぱなしで、それに対する疑問や批判がコメントされたとき対応できないのなら、いっそのことコメントやトラックバックの受け入れを拒否したほうがいいようにも思うけどね。

 これに対しては「じゃあお前はどうなんだ!」という批判も受けそうだけど、僕自身はコメントとトラックバックを原則として受け入れた上で、必要があればコメントに返事を書くし、場合によっては削除も行っている。その基準は一応僕の中にあるが、それをいちいち明文化するつもりはないし、その必要もないと考えている。ブログの運営は、運営者の独裁で構わない。そこには言論の自由などいらない。コメント削除を言論弾圧だなどと言う人もいるが、アホかと言いたい。言いたいことを他人に邪魔されずに書きたいなら、自分のブログを立ち上げてそこで好き勝手にやればよろしい。(2ちゃんねるでもいいけどね。)リンクさえ張ってあれば、「こいつがこんなこと言ってるぞ!」とやり玉に挙げることは可能なはず。外部からのリンクまで、ブログでは規制できません。

 ブログというのはパワフルなツールなのだが、そのパワーに対して無自覚なままブログを立ち上げると、不愉快な思いをしたり、戸惑ったりすることも多いと思う。オンライン・コミュニケーションの初心者が、コメント欄やトラックバックの扱いに過剰反応することも多い。批判的なコメントに「荒らし」のレッテルを張るのも過剰反応なら、自分のコメントが削除されたことを「言論弾圧」扱いするのも過剰反応だ。「ブログとはかくあるべし」という理念が先行していたブログ創成期には、「ブログの運営はいかにあるべきか」という議論が戦わされたりもしかのだが、そうした議論が一段落した後も、次々に新規ユーザーがブログを立ち上げては同じことを繰り返す。

 インターネットが普及するに従って、「メディア・リテラシー」ということが学校教育の中でも重要視されているようだ。「リテラシー」というのは文字の読み書き能力のこと。「メディア・リテラシー」というのはインターネットを使ってものを調べたり、HPを作って意見を発表できる能力のことを指すことが多いようだ。しかしネットに接続して何かを調べたり、自分でHPることだけが、本当の意味での「メディア・リテラシー」ではないはず。ネットで友人が自分の悪口を書いているのを見つけ、学校で相手を殺した小学生の女の子がいた。彼女たちはネットで読んだり書いたりという、最低限の能力は持っていたわけだが、その使い方(読み方と書き方)については能力を欠いていたのだ。小学生の未熟なコミュニケーション能力に対して、インターネットとういツールはパワフルすぎた。

 この事件に対して世間の大人はびっくり仰天したわけだが、インターネットのパワーに振り回されて過剰反応をするという点で、大人と子どもの間に違いはないと思う。コミュニケーション・ツールとして多彩な機能を持つブログでは、そのパワーも桁違いに大きい。そのパワーを使い切れないまま、ツールに振り回されている人はまだまだ多いと思う。ツールは今後もどんどん進化していくだろう。これまで存在していなかったコミュニケーションの上での軋轢が、ブログやそれに続くツールによって社会の広範囲に広がっていくはずだ。

 本当の意味でのメディア・リテラシーが、子どもだけでなく大人にも必要な時代になっている。しかしこれは教わってどうにかなるものではなく、自転車の乗り方を覚えるように、実践を通して時には何度か痛い目にあいながら身につけていくものなのかもしれない。パソコン時代から数えて10数年はネットでのコミュニケーションに関わっている僕など、振り返ってみれば満身創痍だったりするもんな~。

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2005.04.18

反省と死刑

 昨年奈良市で小学1年生の女の子をを誘拐・殺害して逮捕された、元新聞販売所従業員(36)の裁判が始まった。本人にはまったく反省の色がなく、「自分の名前が有名になって満足」「早く死刑になりたい」「社会復帰することがあればまた同じことをするだろう」などと言っているらしい。太々しいというか、投げやりというか、そもそも自分が悪いことをして裁かれているという意識すらないのではないだろうか。01年に大阪の小学校で起きた児童殺傷事件の犯人が、やはりまったく反省の意思を見せないまま死刑になったことを思い出す。

 残忍な事件が起きて犯人が捕まると、僕も含めて多くの人が「ひどい奴だ。死刑にしてしまえ!」と考える。しかし取り調べや裁判の中で、反省の素振りは見せない、動機もはっきり話さない、それどころか「早く死刑になりたい」と主張して、実際に控訴もしないで死刑になられたりすると、逆になんだか釈然としない思いを抱く人が多いようだ。テレビのワイドショーでは、「犯人には人間としての心を取り戻してほしかった」とか、「死んだ被害者に詫びてほしかった」とか、「事件の真相につながる真実をもっと語ってほしかった」などと司会者や出演者が紋切り型のコメントを出す。

 今回の事件についてはよく知らないが、01年の大阪の事件については、社会に適応できない男が破れかぶれになって間接的な自殺の道を選んだというのが僕の解釈だ。社会の中に自分の居場所がないという疎外感が、極端な自己否定となり自殺衝動を生み出す。しかし自分を傷つける勇気がない小心な男の中で、自己破壊に対する衝動は正反対にひっくり返って外部への殺意になったのだろう。子どもを殺しながら、犯人の男は自分自身を殺していた。死刑になることこそが犯人の望みであり、国家は裁判を通してその願望を叶えてやったことになる。犯人が死刑になったとき釈然としなかったのは、僕以外にも多くの人がそんなふうに考えていたせいかもしれない。

 しかしだ、凶悪事件の犯人が心から反省して罪を悔いたとしたら、今度はそれを処刑するのが難しくなるのではないだろうか。「悪いことをしました。ごめんなさい。もうしません」と反省し涙を流す人を、その上さらに殺してしまうというのは不人情だ。そもそも死刑という刑罰は、まったく改悛や更生の余地がない犯人がいることを見越して、その存在が許容されているのではないだろうか。まあ死刑制度の歴史的な変遷についてはよく知らないが、僕は気持ちの上でそう考えている。

 でも一方で僕も、死刑になる犯人が最後まで太々しい態度で「殺さば殺せ」と開き直ってしまうことに、やっぱり釈然としないのだ。死にたがっている人間を楽に殺してやるのは、制度的自殺幇助にすぎない。「殺されたくない!」「死にたくない!」と泣きわめく犯人を冷酷に処刑台に送ってこそ、死刑制度は「刑罰」としての意味を持つ。死刑制度は残忍な刑罰である。しかし死刑制度は残忍であってほしいし、残忍な制度でなければならない。凶悪犯罪に対する怨嗟と憎悪が、死刑制度に残忍さと酷薄さを求めるのだ。

 大阪の事件の犯人が処刑されたというニュースが報じられたとき、「犯人が反省もないまま殺されるのは納得できない。刑務所の中で反省するまで待って、その上で処刑してはどうか」と言ったワイドショーの司会者がいた。つまりこれは、犯人がしったりと死の恐怖を味わうべきだという意見だろう。無茶な意見だと思うが、これはこれで一般庶民の正直な気持ちなのかもしれない。

 さて、奈良の事件の犯人はどうなることやら。一般的にはひとり殺しただけでは死刑にならないのだが、この犯人はまったく反省の気配がないのであるいは死刑もあり得るのかも。どうせなら尖閣諸島に刑務所を作って、この手の「反省しない凶悪犯」を専用に収容したらどうだろうか。

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2005.04.17

反日中国の背景

 中国の反日デモがほとんど暴徒化してひどいありさまなのだが、中国政府がこれをまったく取り締まる気配がないことに日本国内の不満が高まっている。中国政府が取り締まりに本腰を入れない理由については、反日運動の矛先が反政府運動につながるのを恐れてのことだという分析もあるが、確かにそういう側面もあるだろう。でもここまで平然と「日本に対して悪いことをしていない」と言い切るのは、中国政府の中に何か別の思惑もあるのではないだろうかと勘繰ってしまう。僕が考えたのは以下の2つ。

 まず最初に考えられるのは、一連の反日運動の背後には中国市場における日本の立場を不利にしようとする欧米や他のアジア諸国(筆頭は韓国か)の後押しがあり、それが反日デモを勢いづかせる後ろ楯になっているのではないかということ。反日運動呼びかけが、もともと中国国外から持ち込まれたものだという一部の報道もある。デモ隊にペットボトル入りの水を配ってる映像などがニュースでも報じられたが、そうした費用は誰が受け持っているのか。

 中国市場を狙って世界中の国々が仁義なき戦いを繰り広げている中、日本が標的になっている状態は他の国にとっては喜ばしいことだろう。中国版新幹線の建設に日本が参加できなかったのは、小泉首相の靖国参拝が原因だという話もある。外国資本の導入なしに中国の経済発展は望めないが、中国政府は日本だけをスケープゴートにして、国民の愛国心を満足させる気かもしれない。

 上記は先週考えていたことだが、今週は反日デモがより広がりを見せたことに合わせて、さらに考えが「陰謀論」めいてくる。それは中国政府が、日本企業が中国に投資した設備や技術を、そっくり取り上げるつもりなのではないかということだ。

 日本は官民合わせて莫大な資本を中国に投資しているわけだが、今のような騒乱状態(としか言えないだろう)が続けば、日本企業の中には中国市場からの一時撤退を余儀なくされるところが出てくるかもしれない。しかし「中国は日本に対して何も悪いことをしていない」のだから、日本企業が資本を引き上げることに中国側は抗議するはず。日本政府は中国に弱腰なのでその筋からのお達しもあって、中国から撤退する企業は工場設備や技術をすべて現地に残したまま去ることを要求されるに違いない。日本は中国にただで最先端技術を明け渡し、後釜には中国の技術者なり、他の国の技術者なりが座ることになる。

 共産国というのは、似たようなことをこれまでにもやっているのだ。外国資本を積極的に受け入れて工場を誘致したり合弁事業を立ち上げ、事業が軌道に乗って利益が出始めると、経済制度を変更して外国の経営陣を締め出してしまう。こうしてほとんど元手をかけずに、海外の最新技術と大きな工場が手に入る。北朝鮮投資ではこれで痛い目にあっている人が大勢いるので、たぶん中国も似たようなものだろう。ただし中国はWTO加盟であまり露骨なことができないので、反日デモの呼びかけというからめてに出てくるのかも。もしそうだとすれば、中国に進出した日本企業は、強盗に身ぐるみはがれるようにして中国に一切合切持っていかれるかもしれない。

 今回の反日デモの背景に中国の「反日教育」の存在があることは間違いないが、今この段階でそれが社会の表面に吹き出してきたのは、経済発展と都市化が原因だと思う。デモはほとんどが都市部で起きており、参加者の姿を見ると全体にこざっぱりとした身なりの若い人たちが多い。彼らの中には学生時代に都市部で教育を受け、そのまま都市に定住した農村や地方出身者が多く含まれていると思われる。彼らは結婚して核家族を作り、急速に発展した都市部で欧米化した豊かな生活を享受する。日本でも昭和30年代に起きていた現象が、中国でも今起きているのだ。

 一度都市部で豊かな生活を手に入れた人たちは、もう二度と生まれ故郷には戻れない。都市化は常に一方通行。一人っ子政策の中国では、都市化と同時に地方の過疎化と高齢化が一気に進む。あまり報道されることはないが、中国の農業地帯はかなり荒廃しているはずだ。それがますます、地方から都市部へという流れを加速させる。

 しかし地方各地から新たに流入した若年層は、自分たちのアイデンティティに漠然とした危機を感じ始める。彼らは生まれ故郷を失った流民であり、頼るべきものが何もない根無し草になってしまった。こうなると、人がたどり着くのはナショナリズムだ。「〇〇省〇〇村出身の誰それ」というアイデンティティを喪失した人々は、いきなり中華人民共和国という「国家」と直接結びつこうとする。

 ところがその中華人民共和国にも、「国家」としての確固たるアイデンティティが存在しないのだ。中国共産党は反日運動の勝利者という立場にしか自らの存在意義を見いだせないのが現状で、それが歴史教科書の反日愛国教育につながっているのはよく知られている。「国家」に自らのアイデンティティを求めた都市住民たちも、同じように「国家」の中に反日愛国しか見いだせない。それが、中国の都市部で反日デモが加熱する原因になっているように思う。

 中国政府は「国家」として、都市部住民の中で高まるアイデンティティをどうするかという問題に取り組まねばならないと思う。それは「〇〇省〇〇村出身の誰それ」という人々の意識を、それぞれの都市の中で消化解消して新しい都市住民としてのアイデンティティを作り出す方法を探すことだと思う。

 いずれにせよ、現在の反日デモはちょっとやりすぎだ。グロテスクですらある。日系の企業、日本料理屋、日本車に乗っているというだけで投石され、ガラスを割られたり、ペンキで落書きされるという光景をテレビで見て、僕はかつてドイツで起きたユダヤ商店の襲撃事件「水晶の夜」を連想した。このまま反日デモがエスカレートすれば、遠からず日本人に対する組織的な暴力ざたが起きるだろう。日本政府は中国に対してもっと毅然とした態度をとってほしいものだ。

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