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2005.05.07

オーバーランで騒ぐな!

 兵庫の列車事故の直前、事故列車が手前の駅でオーバーランしたからだとは思うが、毎日テレビを見るたびに「今日はどこそこ駅で〇〇メートルのオーバーランがあった」などと大騒ぎ。オーバーランは、そんなに大きく報じるような重大事件なんでしょうか? 列車が本来の停車位置に停車せず、ホームをバックするのはそんなに珍しい風景ではないぞ。列車を日常的に使っている人なら、列車が駅に入ったところで「停車位置調整のためしばらくお待ちください」という車内放送を聞いたことは何度もあるだろう。オーバーラン自体が重大な死亡事故や人身事故につながるわけではあるまいに、なんでこんなに大騒ぎするのだろう。

 事故を起こした列車は確かにその直前にオーバーランを起こしていたけれど、オーバーランがその後の脱線事故の直接的な原因ではない。問題は列車の脱線転覆事故であって、直前のオーバーランはその事故に付随する小さなエピソードに過ぎない。それなのになぜ、他の列車のオーバーランをこれほど大げさに報じるのか。そのオーバーランによって、誰かが怪我をしたのか? 命の危険にさらされたのか?

 事故の原因はまだはっきり解明されていないが、直前の駅でのオーバーランが若い運転士の心理的な重圧となり、制限スピードを大きく越える速度で事故の起きたカーブに突入した……というのが現在までにわかっていることを総合した上で誰もが考えるストーリーだろう。そもそも運転士がオーバーランを起こさなければ、事故は起きなかったかもしれない。でもオーバーランそのものは日常的に起きていることなのだから、問題の運転士が自分のオーバーランをそれほど深刻に考えず鷹揚にその後の運転を続けていれば事故は起きなかったかもしれないではないか。

 オーバーランという日常的な運転ミスを、乗客の生命の安全以上に重要視したところに今回の事故が発生している。問題は死亡事故を防ぐことで、それに比べればオーバーランはどうでもいい。それが常識というものではないか。しかし「今日はどこそこ駅で〇〇メートルのオーバーランがあった」と報じているマスコミは、107人が死んだ事故よりもJR運転士の些細なミス(死亡事故に比べればどれもが些細なミスだ)をあげつらって、運転士たちをオーバーラン恐怖症にさせることに一役買っている。まったく馬鹿な話だ。

 人間はミスを犯すものだ。問題はそのミスを、取り返しの付かない致命的なミスにつなげないシステムを作ることではないのか。オーバーランに大騒ぎする前に、マスコミは報じるべきニュースがまだまだあるんじゃないのか?

 現在のマスコミは屍肉に群がるハゲタカみたいなものだ。大勢死んで、大勢の血が流れた。流された血の匂いがまだ芳しいにおいを放っているうちに、ハゲタカが寄ってたかって屍肉を食い散らかしていく。まったく、うんざりさせられる。

 既存マスコミがもはや弱いものイジメに転じたJR叩きに精を出している中、そんなマスコミ報道の異常な過熱ぶりに冷やかなまなざしを送っているブログが無数にある。ほとんどファシズムと化しているマスコミ論調より、インターネットの方がまだバランスが取れていると思う今日この頃である。まあマスコミのおうむ返しにJR叩きをしているブログはその何十倍もあるんだろうけど、異論や対立意見がちゃんと存在し得るのは健全なことだろう。

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2005.05.06

優しい男にご用心

 妻子がありながら別の女性とも不倫交際していた男が、妊娠した不倫相手を殺して自宅の庭に埋めてコンクリートで固めた事件があった。殺人は悪いことである。不倫も悪いことである。悪に悪を重ねたこの男は、悪い男に決まっている。事件を事細かに取材したニュースショーやワイドショーでは、この男を血も涙もない冷酷な殺人鬼のように報じている。だが本当にそうなのか?

 僕はこの事件の報道をテレビで見ていて、犯人の男が冷血漢だなんてとんでもない話で、むしろきわめて優しい、優しすぎるほど優しい男なのだろうと感じた。この男は優しいから、誰に対しても冷たい態度を見せられなかった。目の前にいる人が自分に対して向ける期待に、できるだけ応えようとした。家族に対してはよき夫、よき父親として振る舞い、同時に愛人に対してもよき恋人として振る舞い続けた。

 殺された女性は、犯人の男が自分と結婚してくれると信じていたそうだ。男は妻とは折り合いが悪く、現在離婚に向けて話が進んでいると聞いていたらしい。ありがちな話だ。浮気男の体のいい言い訳ではないか……。しかしこの男の場合、単なる口先だけの言い訳ではなかったらしい。男と愛人の関係は、愛人の住むアパート周辺で「仲のよい夫婦」と見られるほど正々堂々としたものだった。男は彼女の家族とも会っていて、ふたりの交際は周知のものだった。彼女の妊娠を喜ぶ様子も見せていたという。

 しかしこの男は離婚などする気がなかったのだ。いずれはこの二重生活が破綻することは目に見えていたのに、それには目をつぶってずるずると愛人にいい顔をし続けた。彼女の期待に応えて、優しくて頼りがいのある男であろうとした。この男には、彼女をだますつもりなどなかったのかもしれない。彼は彼女が求める理想の男を、彼女の前でかりそめに演じて見せた。しかし妊娠した愛人の「結婚したい」という願いと、現在の結婚生活を両立させることはできない。ふたつの矛盾する期待に応えられなくなったとき、この男は両方の期待を裏切るという最悪の選択をした。

 僕が見ていたワイドショーの取材によれば、殺された女性は自分の友人たちに対して、自分は必ずしも結婚を求めない、子どもは自分ひとりで育てる覚悟があると話していたそうだ。それは友人に対する強がりだったのかもしれないが、少なくとも彼女の中で、男が自分の期待を裏切ることは「想定の範囲内」だった。男がどこかで彼女に冷たい素振りを見せれば、彼女は男と別れることを考えたかもしれない。

 でも男は、女に対して別れる機会を与えなかった。どこまでも期待に応えて、頼りになる優しい男であろうとした。その結果、突然に物ごとがすべて破綻してしまったのだ。

 僕は今回の事件のニュースを見て、数年前にフランス映画祭で観た『見えない嘘』という映画を思い出した。フランスで実際に起きた家族殺しを映画化した、実録犯罪映画だ。義父と妻子を皆殺しにした犯人の男は当初エリート医師と報じられたが、じつはその経歴は真っ赤な嘘だったことがわかる。実際は無職だったこの男は、義父に預かっていた金を使って生活費にあて、それが底をつくと今度は知り合いの女性から金をだまし取った。虚像の生活が妻に発覚した直後、男は家族を殺して家に火をつける。(残念ながらこの映画は日本公開されていないのだが、エマニュエル・カレールの原作「嘘をついた男」は邦訳出版されている。)

 他人に望まれ期待されている自分の姿を、なんとしてでも演じ切ろうとする男の悲劇だ。今回日本で起きた事件も、これと一脈通じ合うものがあるように思う。映画にしたら面白いかもね。

4309203418嘘をついた男
エマニュエル カレール Emmanuel Carr`ere 田中 千春


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2005.05.05

JR西日本バッシング

 事故の原因としてすぐに置き石の可能性に言及したのは勇み足だっただろう。事故を起こした列車に同乗していながら、現場から離れて職場に向かったという運転士はどうかしていたかもしれない。事故当日にボーリング大会をするのもどうかと思う。しかしそれが、日本中の全マスコミから袋叩きのような非難を受けるほどの失態なのか? どうも最近の報道は、JR西日本側が反論できないのをいいことに加熱しすぎているように思う。

 事実の究明ならいくらでもやればいい。JR西日本側の対応に不誠実なものがあるなら、それは非難されて当然だろう。しかしどうも最近の報道姿勢は、事故原因を探ったりJR西日本の経営体質を報じるという段階を行き過ぎて、マスコミが一丸となってJR西日本を裁く形になってはいないか。テレビに映るJR西日本の記者会見は、まるで記者による人民裁判だ。声を荒らげたり、相手の言葉尻をとらえて揚げ足を取ったり。

 いったいマスコミは、JR西日本に何を期待しているのか? JR西日本が弁解の余地のない大事故を起こしたのは確かなことだから、それに関連づけて何かを言われると、今のJR西日本は何の弁解も反論もできない状態になっている。しかし同じようなことが起きたとき、今回JR西日本が非難されているようなことと同じことが起きないと言い切れる企業が日本にどれだけあるだろう。

 大企業は組織が縦割りだから、自分たちに無関係な部署が起こした不祥事に知らん顔をする。週刊朝日の編集部がが武富士から裏金を受け取っていても、それによって自分たちが道義的な攻めを受けねばならないと考える朝日新聞本紙の記者はいないだろう。会社は同じでも、新聞と雑誌はまったく別部署だからだ。ならば兵庫で事故が起きたとき、大阪の職員がボーリングに行って何が悪いのか。それとも会社が何か不祥事を起こしたら、その会社に属する全従業員は自宅謹慎しなければならないのか。

 神戸で大震災が起きたとき、もうもうと煙をあげる瓦礫となった街を徒歩で横切り、会社に通うサラリーマンの姿がテレビに映しだされていたのを僕は覚えている。何がなんでも職場に向かわずにいられないというサラリーマンの習性は、一般企業だろうとJR西日本だろうと変わらないというだけの話だろう。

 現在のJR西日本が非難されている「企業体質」は、ほとんどが日本の他の企業にもあてはまるものではないだろうか。「人間として」などときれいごとを言いなさるな。僕はつい最近、以下のようなニュースを見たばかりだぞ。

被害者らに遅延証明書 都内の鉄道事業者が発行へ

 JR東日本と東京都内の私鉄8社、都交通局などは18日、都庁で会合を開き、電車や駅構内で痴漢を取り押さえた人や被害者に、鉄道事業者が「遅延理由証明書」を発行することを決めた。痴漢だけでなく盗撮行為も対象で、女性専用車両が15路線に導入される5月9日から実施する。
 都によると、被害者の泣き寝入りや、見て見ぬふりをする乗客を減らすのが目的。申し出があれば各事業者の判断で、学校や勤務先に提出する「遅延理由証明書」「駅滞在証明書」などを発行する。都営地下鉄などでは既に同様の証明書を出しているという。
(共同通信) - 4月18日23時56分更新

 電車の中で痴漢を見つけても、会社に遅刻するのがいやで見て見ぬふりする乗客が多いということを、僕はこの記事を読んで初めて知った。目の前で犯罪行為が行われていても、自分が遅刻せずに会社に行くことの方が大事だと考えている人は、列車事故に出くわしてもとりありず会社に行くでしょう。日本のサラリーマンなんて、そんなものさ。

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2005.05.04

夏時間なんていらない!

 ニュース23を見ていたら、日本でも本格的に夏時間(サマータイム)制度が導入されそうだという話題を取り上げ、キャスターの筑紫哲也はそれを歓迎する口ぶりだった。夏時間というのは日照時間の長い春先から秋にかけて、時計の針を1時間早めて生活リズムを1時間前倒しにする制度。これによって省エネ効果と同時に、新たに生まれた余暇時間を利用した経済効果が望めるという。しかしこれは、どう考えても嘘っぱちだ。省エネと経済効果が、両立するはずないではないか。

 夏時間導入で夏期の就業時間が1時間前にずれれば、それによって会社や工場では冷房や照明にかかる電気代を節約できる。これが夏時間の省エネ効果だ。明るい内に会社の外に放り出された勤め人たちは、夕方から何らかのレジャー施設を利用したり、車でドライブに出かけるなど、これまでになかった経済活動をするだろう。これが夏時間の生み出す経済効果というもの。でも経済効果を生み出す活動は何かしらのエネルギーを必ず消費するのだから、これでは省エネ効果が相殺されてしまう。経済効果とエネルギー消費は比例すると考えるのが普通なので、もし夏時間導入で経済効果がトータルでプラスになることが期待されているのなら、それは省エネとはまったく逆行することなのではないだろうか。

 だいたい夏時間導入で余暇時間が増えるというのが怪しいものだ。1日24時間は夏時間になっても同じなのだから、夏の平日に夕方から余暇を楽しむようになれば、その分は睡眠時間を削るしかないではないか。

 日本じゃ真夏の真っ昼間に外に出るのは子どもぐらいのもので、大人は夕方涼しくなってから買物に出かけたりするものだ。ところが夏時間になると、夕方5時はまだ真っ昼間。買物に出る時間は結果として遅い時間になり、小売業はそれに合わせて営業時間を延長せざるを得ない。小売店で働いている人たちは、労働時間が長くなるのではないだろうか。

 都会のオフィスで働いている人たちだって、夕方5時や6時に会社を追い出されたのでは暑くてたまらない。仕事があろうとなかろうと、もう少し涼しくなるまで冷房の効いた会社に居残って残業しようという気持ちにもなるだろう。結果としてオフィスでは無意味な残業が増える。(工場のように時間になればラインが止まってしまったり、作業交代の時間になる職場は別だろう。)生産業は夏時間導入に賛成でも、事務職はどうなのだ?

 子どもたちはどうなるか。学校の運動部は日没まで練習が基本だから、生徒も指導教師も帰宅時間が1時間遅くなる。

 日本の夏の夜は年々蒸し暑さが増し、日が落ちても部屋を閉め切ってクーラーを利用している家庭は多いと思う。僕は冷房をかけて寝るのは好きではないのだが、どうにも暑苦しくて、やはりクーラーを夜中じゅうかけっぱなしにしていることが一夏に何度もある。涼しいのは明け方近くから午前中にかけてだ。

 経済界は夏時間導入に積極的な様子だが、それは夏期に午前中の就労時間を1時間増やし、夕方の暑い時間に業務を終えられれば、それで冷房代が大いに節約できると考えているからかもしれない。でもそれによって各家庭で冷房の使用時間が1時間前倒しされるのだから、一般家庭の夏の冷房代は一気に跳ね上がると思う。要するに夏時間の導入で、会社は冷房代を社員に肩代わりさせることができる。

 そもそも夏時間で就業時間を1時間早めるというのは、時代に逆行しているのではないだろうか。今から20年ほど前までは、会社の就業時間は朝9時から夕方5時までというのが普通だった。「アフター5」という言葉は5時終業が前提の言葉だ。それがバブル期以降、10時始まり6時終わりという会社が増えてきている。これは会社の経営者や働いている人たちの側に、「朝早く出社して夕方からの時間を有効に使いたい」というニーズがそもそも存在していないことを意味している。

 サマータイム制の導入を検討する以前に、まずは会社の就業時間を1時間早めて、9時始まりや8時半始業に戻してみればいい。あるいは冬は10時始業で6時終業、夏は8時半始業で4時半終業などと、時期によって就業時間をずらせばいいではないか。

 省エネ効果を期待してサマータイムを導入するなら、いっそのこと夏の間だけ1時間時計を早めるのではなく、昼夜逆転させて12時間時計をずらせばいい。日没に起きて、暗くなってから出勤し、明け方になって帰宅するのだ。これなら会社の冷房代はずいぶんと節約できるだろう。アナログ式の時計なら、調整の必要もなくそのまま使える。

 あるいはフランスのバカンス法のようなものを作って、日本国民全体に夏期の長期休暇や、工場やオフィスの休業を義務づけるだけで、省エネ効果は夏時間導入より大きなものになるはず。他にもコンビニやディスカウント店など商店の深夜営業を規制する、テレビやラジオの深夜放送を禁止する、市民の夜間外出を取り締まるなど、省エネの特効薬はまだまだいくらでもあるぞ。飲食店での夜間の酒類販売を禁止するのも効果的かもね。

 いずれにせよ、夏時間導入など手間とコストに見合うだけのメリットはひとつもない。既に導入している国にやめろと言う必要はないだろうが、日本がこれからわざわざ制度として導入する必要はまったくない。そもそも年に2回、家中の時計を調整するだけでも気が遠くなる。電波時計はまず使えなくなるだろうが、掛け時計、置き時計、腕時計だけでもいくつあるか。その他にも、ビデオのタイマー、ラジオのタイマー、留守番電話、携帯電話、パソコン、PDAなど、ありとあらゆる時計を1時間進めたり遅らせたり、たぶんそれだけで毎回何時間もかかってしまうだろう。まったくうんざりだ。

〇サマータイム(夏時間)の定義

Wikipedia:夏時間
 サマータイムについての簡単な説明。

〇サマータイムの効果(導入賛成派の意見)

サマータイム制度導入に向けて議員連盟発足
 超党派の「サマータイム制度推進議員連盟」で幹事長をしている川崎二郎議員のページ。

北海道サマータイム
 北海道は2005年夏に実験的にサマータイムを導入しているが、その目的は日本全体にサマータイム制を波及させることよりも、『内外に本道をアピールする絶好の機会』を期待したり、『道民意識の高揚』などが主目的。サマータイムのある北海道を他地域と差別化することで、サマータイム制そのものを新たな観光資源にする目論見があるようだ。政府が言うような「省エネ効果」についてはまったく触れられていない。

財団法人省エネルギーセンタ:サマータイムとは
 ここではサマータイムの省エネ効果が主張されているが、経済効果や余暇利用については『夕方の明るい時間が増えることで、私たちの行動の選択肢が拡がる』と曖昧にしている。ECCのサイトには省エネルギー政策としてサマータイム制のメリットを論じたページもある。

〇サマータイムの問題点(導入反対・慎重派の意見)

サマータイム問題を考える
 サマータイム導入に反対する意見を集めた反サマータイム派のポータルサイト。どの主張も的を射たもので、これを見ればサマータイムにいかに反対意見が多いのかがよくわかる。

サマータイム法案の上程に反対する意見
 日本労働弁護団によるサマータイム制導入の反対意見。

 今回Amazonを検索して驚いたことに、夏時間やサマータイム制度についてまとめて論じた本というのがほとんど存在しない。まったく議論されぬままに、夏時間が導入されたらどうなってしまうことか!

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2005.05.03

消費者金融のCM

 テレビを見ていると消費者金融のCMが気になる。ひとつの番組でスポットCMが何本も入るぐらいだから、不況だ不景気だというこのご時世にも、消費者金融は景気がいいに違いない。「ご利用は計画的に」と必ず断りを入れるのだが、その一方で「ご相談はお気軽に」と借りやすさをアピールするにも余念がない。しかし消費者金融の中身はサラ金だろう。かわいいアイドルタレントや犬が出てきて親しみやすさをアピールしても、高利の金を貸して利を稼ぐ商売であることに違いはない。そんなことは、多少なりとも世間擦れしている大人なら誰だって知っている。でもキャッチーなCMで「ご相談はお気軽に」と言われ続けて育った子どもたちは、大人が消費者金融に抱くダーティーなイメージを持つことなく大人になり、消費者金融で借金するようになるかもしれない。

 僕が住んでいる錦糸町という街では、駅前の場外馬券場の周囲でありとあらゆる消費者金融業者が営業している。「ギャンブルとサラ金」という、昔ながらのわかりやすい風景だ。しかしこうしたわかりやすさを、消費者金融の明るいテレビCMから感じ取ることはできない。「貸金業」という実態を知らぬまま、うっかり顧客になってしまう人も多いだろう。

 業者側は世間に根強いダーティーなイメージの払拭に躍起になっている。CMもそのひとつだし、最近では「〇〇日間金利無料」などと銘打ったトライアルキャンペーンを行ったり、道行く人にスクラッチカードを配ってクオカードを当選させ(必ず当たるのだ)、とりあえず窓口まで引っ張り込んでしまうなど、あの手この手の拡販策を行っている。僕はクオカードの引き換えに窓口までは行ってもそのままモノだけ受け取って帰ってくる図々しさを持っているが、ここであっと言う間に「利用カード」を作らされてしまう人も多いのではなかろうか。

 消費者金融のテレビコマーシャルが深夜時間帯の放送という縛りから解放されたのはここ10年ほどのことで、それ以前と以降とでは消費者金融のイメージはがらりと変わってしまった。小さな子どもたちは物心付く以前から、「黄色い看板プロミス♪」とか「どうする~アイフル♪」などのCMを日常的に見ながら育っている。あと10年もすれば、消費者金融の薄暗いイメージは遠い過去のものとなるだろう。しかしイメージが変わっても、貸金業の実態など変わるはずがない。

 現在の小中学生が大人になる頃には、気軽に借金していつのまにか借金返済に追われる生活になったり、返済不能になって生活が破綻する事例はどんどん増えるのではないだろうか。(すでにそうしたケースは増えているという。)学校では学力を付けさせることも大事だし、平和教育や人権教育に力を入れるのもいいけれど、それ以前に「お金」についての経済教育をきちんと行った方がいいかもね。

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2005.05.02

生命と死の意味の格差

 社会的な関心を集める犯罪や事故で人が亡くなったとき、マスコミは死んだ人たちの私生活まで掘り起こして、被害者の「無念の死」と、残された家族の「悲痛な思い」を世間に伝えようとする。しかし社会的な関心や注目を浴びなくても、世の中では毎日のように人が殺されているではないか。この日本では、1年に7~8千人が交通事故死している。1日平均20人以上が死んでいる計算だ。兵庫の列車事故の死者数など、1週間分の交通事故死亡者数に満たない。それらの死も「無念の死」であろうし、家族には「悲痛な思い」があるだろう。しかしそれらが、マスコミに取り上げられることはほとんどない。

 多少不謹慎な言い方になるが、兵庫の列車事故で亡くなった方の家族や怪我をした被害者には、それ相応の賠償金が滞りなく支払われると思う。(列車が激突したマンションも、おそらくはJR西日本が買い上げるだろう。)でも交通事故の現場では、被害者側にほとんど賠償が支払われないという事例も多い。例えばひき逃げで犯人が捕まらないことも多いし、加害者側が高額の任意保険に加入していなかった場合もあれば、賠償の示談に応じた後に自己破産してしまうケースもある。被害者側には何の落ち度もないのに、死人に口なしで加害者側の言い分だけが認められ、過失相殺で賠償金を不当に低く抑えられてしまうこともある。

 列車事故や飛行機事故で亡くなるケースなど、世の中ではごくまれだろう。でも自動車事故で大ケガをしたり死んでしまうことは世間にありふれている。しかし「ありふれた事件」は世間の注目を浴びず、新聞もテレビも報じない場所で、今日も明日も「無念の死」と「悲痛な思い」は生まれ続けている。

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2005.05.01

電車で席を譲る難しさ

 電車やバスではお年寄りに席を譲るべきものとされている。しかしそこで、譲られた席を固辞する人が結構いる。断る理由はいろいろあるだろう。先に座っている相手を立たせるのは申し訳ないという遠慮の気持ち。すぐに降りるのでいちいち座ったり立ったりが億劫だという気持ち。自分が年寄り扱いされることに対する憤慨。しかし理由はどうあれ、譲られた席には素直に座っていただきたい。電車やバスで年寄りに席を譲るのが若年層にとっての義務なら、譲られた席に素直に座るのが年配者の義務なのだ。

 僕自身は乗り物の中で目の前に年寄りが立てば席を譲るようにしているが、断られた場合は「そうおっしゃらずにどうぞ」と再度席を勧めて、それでも断られるようなときは自分がまた座るようにしている。しかし世の中には、譲った席を断られることなどまるで想定していない善意の人が大勢いるのだ。おそらく勇気を振り絞って目の前の年寄りに席を譲ったのだろう。「結構です」と断られたとき自分の立った席にまた座ることもできず、逃げ出すように電車の中の人込みをかき分けて遠くに去っていく人を何度も見たことがある。ポッカリと空いた席にはこのやりとりを見ていた他の乗客が座るわけにもいかず、そのまま次の停車駅まで空席のまま残る。

 僕はこういうのを見ると、すごくイヤ~な気分になる。立っている年寄りの前で若いカップルがおしゃべりに興じている風景も醜いけれど、年寄りが席を譲られてそこに素直に座らず、善意で席を譲った側が気まずい思いをするというのはもっと醜悪なことだと思う。気まずい思いでその場を立ち去った善意の人は、次からは電車やバスで年寄りを見かけても、席を譲らなくなってしまうかもしれない。

 電車やバスで席を譲られた年寄りが素直にその席に座れば、席を譲った人はまた別の機会にも同じように席を譲るようになるだろう。年配の乗客が譲られた席に座ることで、別の場所で別の乗客が席を譲ってもらうことにつながるわけだ。逆に譲られた席を断ってしまえば、席を譲ってくれた善意の人は気まずい思いをして、それ以降に席を譲る機会があっても席を譲らなくなってしまうかもしれない。それは結果として、別の機会に別の老人が席を譲られる機会を奪ってしまうことにつながる。

 「私は席を譲られるほど年寄りじゃない」と思っても、その場は相手の善意をくんで席に着くべきなのだ。後から自分より年配の乗客が乗ってきたなら、その時はその相手に席を譲ればいいことではないか。

 電車やバスで年寄りに席を譲らない若者を非難するなら、譲られた席を断る年寄りも非難されるべきだ。譲られた席に座るのも座らないのも自由だという選択権はそこに存在しない。目の前の年寄りに席を譲るという行為が「道徳律」によって強制されるものならば、その席に座ることも同じ「道徳律」によって強制されているに違いない。

11:34 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック