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2006.04.15

本日の注文品

ドニー・イェン アクション・ブック アマゾンのカートに放り込んでいた商品が1万円を超えたので、まとめて注文することにした。「ドニー・イェン アクション・ブック」は、俳優で監督でアクション演出家でもあるドニー・イェンが、アクション演出のノウハウを公開した本。アクションシーンを解説するためにDVDが付いているという念の入れよう。マーシャルアーツ映画の歴史から、現場での具体的なハウツーまで詳細に語っている。先日観たDVD『アート・オブ・アクション マーシャル・アーツ・フィルムの変遷』とも重なり合う部分がありそうだ。

映画検定公式テキストブック 「映画検定公式テキストブック」は、キネマ旬報社が主催する映画検定の公式テキスト。こんな検定が何の役に立つとも思えないのだけれど、話の種に僕も受験してみようかと思っている。しかし何級にどの程度の問題が出るのかが、まったく予想できないのは困った。でも受けるなら2級かな。

リメイク ビアス短篇集

 「リメイク」は映画オタクを主人公にしたSF小説で、知人が「これは必読です!」と言っていたので購入。「ビアス短篇集」は以前も持っていたのだが、どうやら処分してしまったようなので再読のために再購入。ビアスの短篇集は、以前単行本でも持ってた。別に好きな作家ではない。(「悪魔の辞典」はとりあえず持ってるけど、角川文庫版は絶版ですか……。)それでも再購入に踏み切ったのは、DVDでロベルト・アンリコの『ふくろうの河』が発売されるからだ。「ビアス短編集」に収録されている「アウル・クリーク鉄橋での出来事」が、『ふくろうの河』の原作。「アウル・クリーク=Oul Creek=フクロウの河」というわけ。

それでも神は実在するのか?―「信仰」を調べたジャーナリストの記録 聖書とキリスト教関係では、「James Earl Jones Reads the Bible: New Testament KJV」「King James Vest Pocket Edition」を結局注文することにして、他にリー・ストロベルの「それでも神は実在するのか?―「信仰」を調べたジャーナリストの記録」を購入することにした。この本は同じ著者が書いた「ナザレのイエスは神の子か?―「キリスト」を調べたジャーナリストの記録」の続編。内容はキリスト教の超保守派である福音派や原理主義の聖書学者や神学者が、いかなる理由を付けて自分たちの信仰を正当化しているかというもの。批判的な聖書学や自由主義神学に親近感を持つ(別にクリスチャンではないけどね)僕としては、噴飯ものの内容なのだが、世の中にはこのような信仰を持つクリスチャンもいるという意味では、目を通しておくべき本だろうと思う。

 ところで著者のリー・ストロベルはこの2冊の後に、さらなる同様の本を多数出している様子。「The Case for~」というタイトルで著者名でアマゾンの洋書を検索すると、子ども向けの本、他国語版、ペーパーバックなどの判型違いを合わせて、なんと65冊もの本がヒットする。この分野では売れっ子のベストセラー作家ですな……。版元のZondervan社は聖書の出版で有名なキリスト教系出版社で、日本で言えばいのちのことば社みたいなものだろうか。で、ストロベルの本がを日本で出版しているのは、いのちのことば社なんだよね……。

 Zondervan社の聖書はAmplified Bibleを先日購入したばかりなのだが、翻訳や解説はかなり保守的。このあたりも、僕がこの出版社からいのちのことば社を連想する大きな根拠になっている。決して日本聖書協会や日本基督教団出版局ではない、独特のニオイがするのだな……。しかし日本聖書協会は最近このZondervan社をかなり強く意識しているようで、聖書の装丁などでそっくりそのまま真似したような聖書を出している。

Holy Bible: Zondervan New International Version Study, Tan-burgundy, Italian Duo-tone 聖書 新共同訳

 左側がZondervan社のもので、右側が日本聖書協会のもの。ツートンカラーの皮装で、デザインの雰囲気もそっくりだ。聖書協会のものは紙箱に入っているのでわかりにくいが、聖書協会のホームページを見ると、そっくりだということがわかると思う。ちなみに窓があいたこの箱のデザインも、Zondervan社のまねである。

11:31 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

2006.04.14

とりあえずカートに…

James Earl Jones Reads the Bible: New Testament KJV 聖書はもう買わないと昨日書いたばかりなのに、とりあえずアマゾンのショッピングカートに、「James Earl Jones Reads the Bible」「King James Vest Pocket Edition」を放り込んである。他の本を買うついでに、数日以内に決済してしまいそう。現在MP3プレイヤーは使わずにほこりをかぶり始めているので、聖書の朗読CDはそれなりに活用するかも……という目論見があってのことだけれど、さてさて、どうなることかね。

11:32 午前 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

2006.04.13

現実逃避

 仕事がやりたくなくて、ブログやmixiに逃避している。

05:08 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

社民党は公教育を否定?

 社民党党首・福島みずほのブログ(参照)が荒れているという噂を小耳にはさんで野次馬見物に出かけたのだが、中身は取るに足らない靖国批判と国旗国家批判。しかしその中に、ちょっと聞き捨てならない一文があった。

上から弾圧しておいて、魂の自由のないところに教育はあり得ません。国家が個人の内心に入っていくことは大問題であり、教育に公権力は入ってはならないのです

 魂の自由なきところに教育なしとか、国家が個人の内心に干渉するのは大問題というのはわかるが、問題は太字にした部分。公権力が教育に関わるからこそ、それを「公教育」と呼ぶのではないのか? 公権力による教育への介入を否定したら、義務教育など成り立たないではないか! それとも社民党は公教育を解体して、すべてを私的な教育(親による教育、家庭教師、塾や予備校など)にしてしまえと主張しているのだろうか?

 「公教育」というのは公に開かれている教育のことで、公立学校などの公的機関だけでなく、市立学校や専門学校などの教育機関も、すべて公教育の範囲に含まれる。そうした教育機関はすべて学校教育に関する法律の下で、国家権力の保護と監督にもとづいて子供たちを教育しているわけだ。『教育に公権力は入ってはならない』という言葉は、そうしたことを一切否定してしまう。

 人間というのは教育によって人間になる。人間の子供を自然状態の中に放置しておくと、言葉もしゃべれず、知能や身体的な発達も遅れ、社会性も身につかないまま大人になってしまう。そして一度失われた教育機会を、あとから取り戻すことができない。これは数々の「野性児」の記録によって証明されている、児童心理学や発達心理学の基礎だ。教育とはそもそも不自然なものであり、そこには有形無形の強制が伴っている。日本の公教育、特に小中高などの初頭中等教育では、子供にどの程度不自然な強制をすべきかを、原則として国家が一律に決めている。それが日本の公教育なのだ。

 福島みずほは「心の教育に公権力は入ってはならない」という意味で、『教育に公権力は入ってはならない』と書いたのかもしれない。しかしそれは日本の学校教育から、子供の情操に関わる教育を排除しろという主張になってしまうのではないか? たぶん福島瑞穂だって、そんなことを考えているわけではあるまい。

 おそらくこの社民党党首には、「権力と教育の関係」についての明確な考え方などないのだ。「命の大切さを教える教育」や「男女平等を教える教育」「平和の尊さを教える教育」などに、たぶんこの人は大賛成だろう。これらも結局はイデオロギーでしかないのだが、こうした自分の許容できるイデオロギーや価値観が子供に強制されるのは許容し、自分の気に食わない価値観については学校現場から排除したいだけなのだ。おそらく本人にはそういった自覚がまったくないだろうけれど……。

04:59 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

J・キャッシュの新約聖書

Johnny Cash Reads the Complete  New Testament: New King James Version ジョニー・キャッシュ製作主演映画『The Gospel Road』もアメリカでDVD発売されたばかりなのですが、アマゾンで聖書の朗読CDを検索していたら、ジョニー・キャッシュが朗読する新約聖書のCD「Johnny Cash Reads the Complete New Testament: New King James Version」というのを見つけました。CD16枚組だというからこれで新約聖書全巻でしょう。一瞬購入ボタンに手が伸びかけたのですが、僕が持っている聖書の中にはNKJVがないのでストップ。KJVなら先日購入したばかりなので、ジェームズ・アール・ジョーンズが朗読する「James Earl Jones Reads the Bible: New Testament KJV」の方がいいのかな~、などとも考え、それより訳文としてはNRSVのものがいいのかもと検索して、サンプルを聴いたりもしてみたのですが……。

Vest Pocket New Testament and Psalms-KJV たぶんあれこれ考えた末に、何も買わないような気がする。朗読CDをMP3プレイヤーに録音して聴くにせよ、外出中は注釈付きの大きな旧新約聖書を持ち歩くわけにはいかないので、朗読CD用のテキストとして新たに英文の新約聖書が欲しくなる。まあこれはKJVなら数百円に過ぎないんだけど、もういい加減、聖書を買うのは控えようと思っているんだよな……。

03:33 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

2006.04.12

俳優の監督デビュー作

 午後はワーナーで『僕の大事なコレクション』からスタート。前半でついウトウトしてしまったのは、モノローグの単調な会話がずっと続くからだろうか。これは『スクリーム』シリーズや『クライシス・オブ・アメリカ』に出演していた俳優リーブ・シュライバーの監督デビュー作。ユダヤ系アメリカ人のルーツを旅する、本人にとっても自伝的な内容らしい。その後は歩いてシネマート試写室まで移動し、『エンター・ザ・フェニックス』と『ドラゴン・プロジェクト』を続けて観た。『エンター・ザ・フェニックス』は香港の若手俳優ティーブン・フォンの監督デビュー作で、本人も出演している作品。『ドラゴン・プロジェクト』は彼の2本目の監督作で、こちらの方が面白さは上だった。

10:07 午後 | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック

ユダの福音書を追え

Yuda 「ユダによる福音書」がらみだが、5月2日に日経ナショナル ジオグラフィック社から、この福音書の発見と解読のドラマを伝える書籍「ユダの福音書を追え」が緊急出版されるという。そのあおり文句は以下の通り。

『これはユダの名誉回復だけでなく、イエスの死と復活を重視するキリスト教を揺るがしかねない衝撃的な内容です。』

 そんな馬鹿な! この福音書が本物だとしても、新約聖書正典の権威はびくともしないに決まっているではないか。ユダはやはり裏切り者であって、その名誉が回復されることは永遠にあり得ないだろうね。

 ナショナル・ジオグラフィックのHPには「ユダによる福音書」の専門ページが作られていて、そこから修復作業を行った学者のインタビューや、ナショナル・ジオグラフィックによるプレスリリースなども読むことができる。プレスリリースに意見を述べている学者の中に、エレーヌ・ペイゲルスの名前が出ていた。さすがにこういう専門家は、今回の福音書発見についてもあまりセンセーショナルなことは言わない。

 「この見解に同意するかどうかはともかく、きわめて興味深い見方です」と、グノーシス福音書の世界的権威である米国プリンストン大学ハリントン・スペアー・ペイン研究所のエレーヌ・ペイゲルス教授(宗教学専攻)は指摘します。「『トマスの福音書』や『マグダラのマリアの福音書』など、2000 年近くほとんど知られていなかった他の古代の文書と同じように、『ユダの福音書』もなじみ深い福音書の物語に斬新な見方を与えてくれます。これらの発見は、キリスト教の始まりに対する私たちの理解を変えつつあります」
 米国チャップマン大学のマービン・マイヤーはこう語っています。「これまで未発見だった福音書の文書が世に出ることはめったにありません。特に初期キリスト教の文献で言及されている文書の発見は、きわめて珍しいことです。『ユダの福音書』は、キリスト教の発展の道筋を知る重要な史料であり、初期キリスト教の豊かな多様性に改めて光を当てるものです」
 カナダ・アカディア大学神学大学院のクレイグ・エバンズ教授(新約聖書研究者)も、『ユダの福音書』の修復と出版を高く評価しています。「『ユダの福音書』は、キリスト教徒の中にイエスと弟子たちに対する多様な見方があったことを示す、重要な2 世紀の証言です。この発見によって、新約聖書に収められた正典福音書の内容に対する理解がさらに進む可能性もあります」

 要するにこの発見は現在のキリスト教そのものを揺るがすわけではなく、紀元2~3世紀の初期キリスト教史を研究する人たちにとって、貴重な資料になるということ。これはこれで歴史的な大発見ではあるけれど、これによってキリスト教の教義が改められるといった性格のものではないのだ。専門家は当然のことながらそれを知っているし、初期キリスト教やグノーシス思想に興味のある人も、そんなことは百も承知のことだろうけれど……。

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トマスによる福音書 グノーシス―古代キリスト教の“異端思想” 新約聖書外典 禁じられた福音書―ナグ・ハマディ文書の解明 マグダラとヨハネのミステリー―二つの顔を持ったイエス

11:18 午前 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

2006.04.11

グーグル Google 既存のビジネスを破壊する

 文藝春秋から冊子小包が届き、中には「グーグル Google 既存のビジネスを破壊する」(佐々木俊尚著)という新書が1冊入っていた。Google Adsenseからアカウントを抹消された件について、僕のブログからこの本に事例を引用してあるので、取材協力者への献本というわけだ。該当の記事は本の218ページぐらいから載ってます。パラパラと内容確認のために目を通してみたけれど、今となっては怒りや当惑というより、なんだか笑ってしまうしかない出来事だったな……。いまだにこの記事がらみで、ブログへのアクセスが多いところを見ると、たぶん似たような事例でAdsenseがポシャった人は大勢いるんだろうと思う。

 ところでAdsense顛末記にリンクを張ってくれている記事をたどってみると、同じようにアカウントを抹消された人たちが「こんなひどい対応をされることがわかったので、自分はクレームをつけるのをやめた」と泣き寝入りしていることが多いように思えて、それがちょっと気になったりはしている。ユーザーが泣き寝入りしている限り、企業の態度は変わらないだろう。どんなに理不尽な仕打ちをしても、「しょうがないや」とあきらめてくれるユーザーばかりなら、企業はやりたい放題のことができるわけでして……。

 むしろ困ったことが起きたり不審に思うことがあったなら、企業側にどんどんクレームを付けた方がいいと思う。もちろん悪質なクレーマーになるのはもっての外だけれど、これはおかしい、これは納得できないといことがあるなら、それを企業側に伝えるのもユーザーの義務なんじゃないだろうか。企業というのは井の中の蛙みたいなところがあって、企業内部で企業の論理で物事を考えている。そこに外部から「クレーム」や「問い合わせ」とい形で別の視線からの意見が入ってくるのを、まともな企業なら歓迎するはずなのだ。(Googleがどうなのかは知らないけれどね。)

 Adsenseがらみではないけれど、家電製品やパソコンなどの故障も、「購入日から1年と少したっているから有償修理だ」とあきらめてしまう人が多いのではないだろうか。僕は以前使っていた富士フィルムのデジカメが購入から1年ちょっとで故障したとき、窓口に強く言ったら無償で修理してくれたぞ。しかも修理から戻ってきた直後に別の箇所が壊れ、再度修理に出してまた数日で壊れたときは、購入した値段でカメラ本体とメモリーカードを引き取ってもらった。(ちなみに最初の故障は同型の他のカメラでも多発していたようで、1年後にリコールして無償修理するという知らせが届いた。)「おかしい」「へんだ」と思ったら、メーカーの側に一言いうだけ言ってみればいい。相手が自分の落ち度だと感じれば、それなりの対応はしてくれるはずなのだ。

 どうしようもないことを諦めるのはひとつの美徳だと思うけれど、ひょっとしたらどうにかなることも諦めてしまう人が多すぎるんじゃないかな……。

10:36 午後 | 固定リンク | コメント(2) | トラックバック

罪のゆるし

 キリスト教の大きなテーマのひとつに「罪のゆるし」がある。新共同訳聖書ではこれを「罪の赦し」と記すのだが、ワープロで変換すると「罪の許し」になることの方が多い。「赦し」と「許し」とではそれほど意味が違わないかと思いきや、これが大いに違うのだ。何かを許可することが「許し」で、罪や過失などをとがめないことが「赦し」。キリスト教の「罪のゆるし」は後者。これが「罪の許し」では、いくらでも罪を犯すことを許可されていることにとられかねない。

 この問題は以前から気になっていたのだが、さっきたまたま映画評を書いていて「結婚のゆるし」という言葉を変換したとき、これが「結婚の赦し」になったことで改めて気になり始めた。僕は「結婚を許可してもらう」といいう意味で「結婚のゆるし」と書いたので、これは「結婚の許し」と変換するのが正しい。つまりまだ結婚は成立していないわけだ。これが「結婚の赦し」だと、カップルは既に結婚していることになる。夫婦は誰の許可も得ないまま結婚してしまったが、あとから「まあいいよ」と言われるのが「赦される」ということ。

 なお現代日本語表記では、「赦す」を「許す」と書いても間違いではないようだ。

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2006.04.10

痴漢冤罪裁判

 痴漢が犯罪であることはわかるし、犯人を厳しく処罰すべきだという意見にもうなずける。しかし嫌疑をかけられた人間を、ただそれだけの理由で3週間も留置・拘留するのは、そこに存在したとされる罪の大きさに比べて著しくバランスを欠いてはいないだろうか? 住所氏名がわかって逃亡の恐れがなく、捜査に対しても協力的な態度を取るなら、自宅に返してもいいんじゃないの? 痴漢事件では被害者・加害者双方の言い分しか証拠がないことがほとんどだろうに、被害を訴えた側は被害届を提出すればそれで放免で、加害者の嫌疑をかけられたら3週間の留置・拘留ではたまったものではないよ。

 警察は自分たちの経験からして、痴漢などしていないと言い張る人間も、数日留置場に放り込んでおけば罪を認めると考えているのかもしれない。そりゃそうでしょう。普通の人間は刑事事件の容疑者として逮捕され、3週間も会社を休めばその時点でクビだよ。それよりは罪を認めて罰金刑ですめば、その方がいいもんね。最近は痴漢も量刑が重くなっているようだけれど、初犯ならそれほど重い罪にはならない。せいぜい数万円から、悪くても数十万円の罰金を払えば済む話なのだ。

 それにしても、今回裁判になった事件のような例はちょっと困った。犯人にされてしまった男性は現行犯逮捕されているのだが、じつは事件の直後に現場で捕まったわけではないのだ。電車を下車して駅の外に出て、駅前のロータリーを歩いているときに、痴漢だと名指しされ警官に逮捕されてしまった。列車の中で腕をつかむとか、列車を降りた瞬間に駅員に突き出されるというのなら、同じ列車の中で様子を見知っている目撃者が現れる可能性もあるのだが、今回の事例ではそうした目撃者が現れる余地がない。それでも「あの人は痴漢です」と女性が言えば、それで3週間の拘置・拘留になる。

 なおこの事件の被害女性は、男性が取り調べられている最中に検察側からの捜査協力に応じなくなり、電話連絡も付かなくなってしまったという。捜査に協力しなかった理由は、なんと「面倒くさくなった」からだそうです。今回加害者とされた男性は女性の被害申し出を「電車内での携帯電話使用を注意されたことの逆恨み」と言っているが、裁判長は「注意されただけで虚偽申告するとは想定できない」とこの訴えを退けている。普通の人の感覚では、自分の届け出で痴漢の犯人が逮捕され取り調べを受けているのに、捜査への協力を「面倒くさい」とすっぽかすことも想定できないんですけどね……。

10:57 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

2006.04.09

ユダはイエスを裏切ったのか?

 「ユダによる福音書」の復元英訳というニュースと相前後して、mixiのクリスチャン・コミュニティで「ユダに関する考察」と題するトピックが立ち上がった。ユダの裏切りについては僕もかねがねいろいろなことを考えていたので、この機会にそれをまとめて書いてみた。


 歴史的な事実としてまず間違いのなさそうなのは、イエスの教団の幹部(「十二人」もしくは「使徒」と呼ばれるグループ)にイスカリオテのユダという男がいたが、彼はイエスの死後に再興された初代教会に参加しなかったということです。

 案外ユダは生きていたのかもしれません。しかし他の幹部が全員が初代教会のメンバーになったのに、ユダだけはそこから離れてしまった。これは初代教会のメンバーにとって、大きな裏切り行為に思えたことでしょう。



 僕はユダの裏切りという伝承が、「復活信仰」の成立と深い関わりを持っているようにも思います。

 イエスの逮捕と処刑をきっかけに、イエスの教団は一度バラバラになってしまうわけですが、ペテロをはじめとする教団の主要メンバーは「イエスは復活した」という信仰的確信によって再び集められ、新たな伝道活動を開始します。しかし生前のイエスを慕って集まっていた人たちのすべてが、復活信仰を共有したわけではないでしょう。教団のメンバーの中にも、復活信仰に納得せず、教団から離れてしまった人たちも多かったはずです。復活信仰をなかなか受け入れられなかったトマスの話は、復活信仰に懐疑的・批判的な人々が少なくなかったことを物語ります。

 ユダが自殺していなかったとすれば、おそらく彼はかなり早い段階で初代教会への参加を拒んだのでしょう。これが「ユダの裏切り」の歴史的真実ではないかと思います。初代教会のメンバーが恐れたのは、ユダが教団の外部から「復活信仰」を批判するようになることです。そうした恐れが、ユダに「イエスを売った裏切り者」という汚名を着せ、自殺してしまったことにした理由かもしれません。(教団脱退者であるユダを、誰かが実際に殺してしまったとも考えられます。初代教会にはアナニアとサフィラの夫婦のような、不可解な死を遂げた人物もいます。)

 ユダが初代教会への参加を拒んだ理由としては、復活信仰への不信以外にも別の解釈が可能です。それは彼が十二人の中でただひとり、ガリラヤ出身者ではなかったことです。他のメンバーがガリラヤという地縁血縁で結束していたのに対し、ユダだけはそれとは別にイエスの教団に参加したようです。イエスの死後、ペテロら教団幹部の多くは故郷ガリラヤに逃亡し、そこで復活のイエスに出会う経験をします。イエスの復活信仰が生まれたのも、初代教会が生まれたのもガリラヤでしょう。しかしユダはその現場に居ることができなかったのです。

 イエスの生前には結束していた十二人や弟子たちのグループが、イエスの死後に分裂し、ガリラヤ出身者グループとユダなどそれ以外の出身者グループに分かれたのかもしれません。

 イエスの逮捕直後にユダが自殺した可能性もありますが、その場合もっとも普通に考えられるのは、彼がイエスの後を追うように殉死したことです。あるいはイエスの逮捕直後にエルサレム市内でイエス教団関係者の摘発と吊るし上げが行われた際、他の弟子たちが散り散りに逃げ去る中で、ユダだけが運悪く熱狂する群衆に捕らえられ、リンチの末に殺されてしまったのかもしれません。もしそうなら、ユダはイエス教団における最初の殉教者ということになります。



 生前のイエスの教団がどの程度の規模だったのかは不明ですが、イエス教団の存在が当時の権力者たちにとって現実的な脅威に思えたくらいですから、それなりの規模を持つ集団だったはずです。十二人(十二使徒、十二弟子)と呼ばれるグループはその中の幹部ですが、彼らはイエス教団から派遣されて各地で伝道宣教したことがありますから、それぞれに少数ながら個別の弟子とも呼べる人たちを従えていたでしょう。当然ユダにも、彼直属の弟子たちがいたに違いありません。

 イエスの逮捕から処刑に至る混乱の中で、イエス教団の幹部十二人の中で唯一ユダだけが命を落としたのかもしれません。それが自殺だったのか、民衆のリンチによる殺害だったのかは不明です。ひょっとしたらその死体が、後に「血の畑」もしくは「血の土地」と呼ばれる場所に投げ捨てられたのかもしれません。しかしユダの弟子たちは生き延びたでしょう。

 その後しばらくして、初代教会はイエスが復活したという信仰によって再結集します。しかし指導者を失ったユダ系列の弟子たちは、この初代教会への参加を拒んだのかもしれません。彼らは復活信仰を批判し、イエス教団からの最初の離反者となります。これは初代教会にとって強力な批判勢力ですから、初代教会はこのユダ系の弟子たちを自分たちの周囲から排除しようとします。そこで考え出されたのが、「裏切り者のユダ」という物語だったのかもしれません。こうした物語の存在は、ユダ系の弟子たちを排除し、その批判から初代教会の信仰を守るのに大いに役立ったことでしょう。

 しかし上記の考察にはまったく根拠がありませんので、あくまでも想像の範囲内であり、小説みたいなものですね。まあ歴史の中では、こうした可能性も十分にあり得るということです。

 ユダの裏切りはすべての福音書に書かれていますが、これはユダの裏切りが歴史的事実であったことを示しているわけではありません。最古の福音書である「マルコによる福音書」が成立する以前に、イエスの受難について語った「受難物語」が成立しており、その中で既にユダに裏切り者としての役目が与えられていたのでしょう。

 受難物語はイエスによる最後の晩餐、逮捕、処刑死、復活までがワンセットですから、「復活」の物語を否定するものが受難物語全体の中で敵対者や裏切り者の役目を与えられたとしても不思議ではありません。イエスの死後にユダ本人やユダの弟子たちが復活信仰を否定していたと考えるなら、ユダが受難物語の中で裏切り者とされた理由にも十分納得がいくはずです。

 復活信仰を否定するということは、イエス教団の役割がイエスの死によって終了してしまったことを意味します。こうした考えに立ったグループは、時間と共に衰退していくしかないのです。かくしてユダ系の弟子グループはあっと言う間に歴史の中に埋もれてしまい、受難物語の中のユダだけが残されたかもしれません。

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