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2006.09.30

DVDを大量注文

サンライズ クリティカル・エディション 映画史の授業用にDVDを大量注文する。まずは古いサイレント映画で、『サンライズ クリティカル・エディション』、プドフキンの『母』、エイゼンシュテインの『十月』。同じエイゼンシュテインのトーキー作品で『イワン雷帝』『アレクサンドル・ネフスキー』などだ。『ストライキ』や『全線~古きものと新しきもの』はいずれ買う予定。『戦艦ポチョムキン』は輸入盤で既に持っているので今回は見送り。ムルナウの『最後の人』やドライヤーの『ヴァンパイア』もいずれ買うと思う。

ハレルヤ 他には古いミュージカル映画『ブロードウェイ・メロディー 特別版』と、キング・ヴィダー監督の『ハレルヤ』。このへんは、トーキー直後の音楽映画ということでの選んだもの。あとはミュージカル映画なら『四十二番街』を持っているし、アステア&ロジャースもある。あとは『ザッツ・エンターテインメント』から抜粋すれば何とかなるかな。音楽ものやミュージカル以外では、戦争映画で『西部戦線異状なし』、ドラマもので『チャンプ』、西部劇の『シマロン 特別版』も買った。他にギャング映画を何本か持っているので、これでだいたいのジャンルは揃っている。

ニノチカ 映画の黄金時代は戦前で、そのピークは1939年だった。この年に第二次世界大戦が起きてヨーロッパ映画はダメになり、アメリカ映画も徐々に戦時色を強めていく。戦争とは無縁の無邪気な映画は39年で終わりなのだ。今回は『ニノチカ』『駅馬車』『邂逅(めぐりあい)』『チップス先生さようなら』、そして『嵐が丘』(『孔雀夫人』とのパック)などを注文。同年の大ヒット作『風と共に去りぬ』と、ミュージカル『オズの魔法使』は持っている。『スミス都へ行く』も欲しかったのだが、これは現在DVDの在庫がないようだ。それにしても、1939年と言えばトーキー実用化からたった12年。この時代の映画が、いかに貪欲に新しい技術を消化吸収していたのかが感じられる。

03:03 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

2006.09.29

サイレント映画時代

 映画史の授業で、サイレント映画時代のハリウッドについて話をする。映画は1890年代に発明されて、最初の15年ほどはニッケルオデオンで短編のコメディやドラマ、ニュース映画などの興行を行っていたが、1910年代にグリフィスという大監督が現れ、現代に繋がる映画の話法や、サイレント映画の表現技法をほぼ完成させてしまう。それに続く1920年代はサイレント映画の黄金期。しかし1927年には『ジャズシンガー』の登場で、映画業界は一気にトーキーになだれ込んでいく。つまりサイレント映画の時代は、ほんの30年しかないのだ。

 しかしその30年間の、なんと豊かなことか。僕自身は映画史の勉強をはじめるまでこの時代の映画についてはまったく不案内だったのだけれど、19世紀末に写真術の発展的な形式としてヨチヨチ歩きを始めた映画は、ほんの10数年間で一人前の大人になり、その後さらに10年かけて成熟していく。映画の歴史110年間の中で、サイレント時代ほど短期間のうちに表現技術が進歩成熟していった時代はない。最近この時代の重要な作品が次々DVDになっていることもあり、しばらくサイレント映画にはまりそうだ。

09:13 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

2006.09.28

映画のコンセプト

 映画批評の授業で、映画にとっての「コンセプト」について少し話をした。コンセプトにはいろいろな意味があるが、今回は「映画と社会の関わりをどう考えるか」という切り口。笠原和夫言うところの「映画を作るにあたっての戦略・戦術」であり、「映画の芸術性と商業性のパランス」という話だ。ただ話をしていても生徒はあまりピンとこないようで、これは僕の説明が悪いのか、実際には映画にコンセプトなど不要なのか、よくわからなかったりもする。たぶん僕の説明が悪くて、生徒に問題点が伝わらなかったのだろう。映画が社会的なメディアであるという話をしてから、映画と社会の関わり抜きに個々の映画を考えることはできないという話しにすべきだったかな……。映画批評の授業が来年もあるなら、その時の課題かも。

 もっともプロの映画ライターでも、映画の社会性についてはまったく無自覚なまま、単純に映画の良し悪しだけでものを言う人は多いけどね……。まあ僕も、場合によってはそういう物言いをするし、そうした物言いが許される映画もあることはある。でも映画を「ビジネス」として考える場合、その映画の存在と、その映画を受け入れる市場の関係は常に意識しなければならないはず。これは「売れる映画がいい映画」とか、「マーケティングが重要」とか、「映画は社会的なテーマを扱うべきだ」いう話ではなく、映画について考えるときの立ち位置の問題だと思う。

08:09 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

2006.09.27

D.W.グリフィス

D.W. Griffith - Years of Discovery 1909-1913 天気も悪く、体調もまだ本調子とは言えないので、外出を控えて家でDVDを観る。タヴィアーニ兄弟の『グッドモーニング・バビロン』を観た後、D.W.グリフィスの短編作品を続けざまに観ていく。まずは『The Birth of a Nation & The Civil War Films of D.W. Griffith』に収録されている、南北戦争関連の短編作品を全部観た。その後は以前途中まで観て放置していた『D.W. Griffith - Years of Discovery 1909-1913』の1枚目のディスクを全部。この2枚組DVDは『Griffith Masterworks』に収録されている『Biograph Shorts: Griffith Master』と大部分重なっているのだが、これはたぶん元になるフィルムアーカイブが同じなのだろう。明日の午後もこの作業を時間のある限り続ける予定。かくして今週も試写ゼロである。

11:44 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

2006.09.26

フラガール

フラガール 仕事にも一区切り付き、体調もまずまずなので、公開されたばかりの『フラガール』を観に行った。トータルでは悪くはない。感動できる場面もたくさんある。でも脚本はヘタクソだな~。特に東京から来たダンス教師周辺のエピソードがダメ。借金まみれで、不貞腐れて、飲んだくれている教師が、なぜ真面目に指導しようとし始めるのかという動機付けが弱い。クライマックスで教え子たちをステージに送り出す場面は、『がんばっていきまっしょい』からのパクリだろう。こうした場面はバックステージ・ミュージカルなどにいくらでも似たような場面があるのだから、もうちょっと気の利いたことを考えてほしいのだ。まあ『がんばっていきまっしょい』を知らない人なら、感動するのかもね。駅のホームでフラの振り付けで想いを伝える場面はよかったけれど、なぜ彼女たちが直接列車に駆け寄らないのか理由が不明。その後の絵の構図もちょっと意図がわからない。なんだかイロイロと、文句を言いたくなる場面の多い映画なのだ。でも最後のステージシーンがものすごくいいので、トータルでは「ま、いいか」という気分にさせられる。

08:51 午後 | 固定リンク | コメント(0) | トラックバック

『永遠の法』のチケット

永遠の法―エル・カンターレの世界観 9月30日から東映系で公開されるアニメ映画『永遠の法』の招待券を、どなたか無料で譲っていただけないでしょうか? 幸福の科学の映画は『ノストラダムス戦慄の啓示』から欠かさず観ているのですが、最近は東映の試写にも行かなくなってしまったので、今回の新作はまだ観ていません。幸福の科学の映画は日本では珍しい宗教映画ですが、一般向けのビデオやDVDにはならないようなので、一度観逃したら最後二度と観る機会がないかもしれません。過去の例では、劇場前で幸福の科学の会員が招待券を道行く人たちにタダで配っていたというような噂も聞いたことがあるのですが、僕はいまだそうした場に出くわしたことがないので真偽のほどは不明。確実なのは、幸福の科学の会員さんからチケットを分けてもらうことだと思います。そんなわけで、もしチケットを譲ってもいいという会員さんがいればご連絡ください

 幸福の科学という宗教にはまったく興味がないのですが、作っている映画にはとても興味があり、いつも楽しく観させていただいております。もし少しまとまった枚数を分けていただけるのなら、この機会に、『永遠の法』鑑賞オフなどをやるのも面白いかもしれません。ご連絡をお待ちしております。

10:02 午前 | 固定リンク | コメント(7) | トラックバック

2006.09.25

伝染性単核症

 体調は徐々に復帰しているものの喉の腫れはあまり治まらず、時折ひどい咳も出る。先週行った病院に再度行って別の先生に診てもらったところ、念のためもう一度血液検査をして「伝染性単核症の疑いあり」との診断。とりあえず経過を見て最終的な判断をするようだけれど、そうない場合は何らかの血液の病気の可能性があるので、専門の病院に行って診断を受ける必要があるそうだ。デンセンセイタンケツショウなんて初めて聞く病気だけれど、風邪の一種みたいなものらしい。

 帰宅してから電子辞書で調べてみると、日本人の多くははこの病気のウィルスに感染しているというから、あまり心配するようなヘンな病気ではないようだ。特に治療の特効薬というのはないというので、なるべく安静にしているしかなさそう。しかし学校の授業はあるし、試写もある程度は観ておかなければならないわけで、そうそうゆっくりもしていられないんだけどね。まあとりあえず、今はもうひとつの「血液の病気」でないことを願うばかり。

06:34 午後 | 固定リンク | コメント(3) | トラックバック

2006.09.24

進化論と創造説

進化論を拒む人々―現代カリフォルニアの創造論運動 アメリカの保守的なキリスト教徒の中には、ダーウィンの進化論を非科学的な仮説に過ぎないと断じ、聖書に書かれている通りに、世界は神によって創造されたのだと主張する人たちが少なくない。こうしたことは日本のマスコミでも時々取り上げられるが、そのたびにほとんどの日本人は、日本なら中学生でも理解できる生物進化の理屈が、なぜアメリカ人には理解できないのか首をひねることになる。しかしこれは、決して対岸の火事ではない。日本にもやはり保守的なクリスチャンがいて、大まじめに創造説こそが正しいと信じている。

 日本のキリスト教人口は1%以下と言われているし、キリスト教徒のすべてが創造説を支持するような保守的信仰の持ち主というわけではない。このため日本国内では、創造説支持者が社会的に大きな発言力を持つことはない。しかしだ、もし仮にこうした人が学校の教師になって、子供の理科や生物の授業を受け持つようになったら、そこには大変な葛藤と軋轢が生じるであろうことは想像に難くない。思想信条信教の自由は日本国憲法で保証されている。教師がどんな信仰を持とうが、それはその教師の勝手だ。しかし自分の信仰的な確信を、学校の授業の現場に持ち込まれては困る。理科の授業で子供に対して、「進化論は非科学的な仮説です」「生物は決して進化しません」「聖書の創造論こそが真実です」などと教える教師を、学校も保護者も認めないだろう。

 教師が個人的に何を信じるのも自由だ。しかしそれを、学校の中に持ち込む自由は制限されるべきなのだ。理科の教師が創造論を信じるのは自由だが、それを学校で生徒に教える自由はない。学校では教科書通りに進化論を教えるべきだし、もしもそれが自分の良心に反するというのなら、理科の教師はやめるべきなのだ。教師にも当然、思想信条や信教の自由はある。誰もそれを否定はしない。しかし教師が私的な領域で何を信じるかという問題と、その教師が学校という公的な場所でどう振る舞うべきかという問題は分けて考えるべきではないのか。

 で、以下が本題になる。

 東京都教育委員会は、卒業式などの行事で教職員に国旗に向かっての起立や国歌斉唱を求めている。これが思想と良心の自由を定めた憲法に違反するとして教職員ら401人が裁判を起こし、つい先日、原告側の主張が全面的に認められる判決が出た。無茶苦茶な判決だと思う。教師が私生活の領域で国歌や国旗について何を考えていようと勝手だが、それを教育の現場に持ち込むのは制限されるべきだと僕は考える。

 自己の信仰に対する信念からどうしても進化論を教えたくない教師には、理科の授業から外れてもらうしかない。場合によっては教職を辞していただくべきだろう。国旗や国歌に反対する教師についても、同じことが言えるように思う。

11:14 午後 | 固定リンク | コメント(4) | トラックバック