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働いている自動車ディーラーの社長令嬢と10日後に結婚する主人公は、同僚たちと独身最後のバカ騒ぎをした帰りに車で人をはねてしまう。とっさに逃げてしまったが、この事故には目撃者がいた……。
主人公たちは誰も悪人ではない。だが、誰も正しい人間ではない。黒と白の間のグレーの領域を漂いながら、それでも真面目に、誠実に生きようとしてきた人たちが、ひとつの交通事故で結びつけられる。事故の一件を使って主人公を脅迫しようとする人もいなければ、死んだ男のために血の復讐をしようとする者もいない。そうしたものを出さないところにこの映画のリアリズムがあるのだが、しかしそれはわかりやすいサスペンスを否定するということでもある。
『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか』(マタイ16:26)。このテーマの映画は山ほどあるのだが、この映画もそんな作品の中の1本。しかし結末はちょっと意外なものだった。
(原題:Trois mondes)
新潮社主催の「女の女のためのR-18文学賞」で受賞の最終候補になったという雛倉さりえの同名短編小説を、思春期の女の子描写には定評のある金子修介監督が映画化。
主演の花井瑠美と大谷澪はどちらも映画初出演に近くて演技は拙い。台詞のすきまからキャラクターの感情が見えない、ぼんやりとした語りだ。しかしその演技のぎこちなさや頼りなささえも、思春期の少女の恋愛に対するぎこちなさや、存在の頼りなさなどに重ね合わせていくため、ここでは演技が拙いことがマイナスになっていない。この手は何度も使えるわけではないのだが、少なくともこの映画ではうまくツボにはまって抜群の効果を生み出している。
彼女たちが周囲に溶け込めない、浮いた存在であること自体が、この映画においてはひとつの財産なのだ。
アンジェリーナ・ジョリーの初監督作で、脚本と製作も彼女自身が行っている。ボスニア紛争直前に出会って恋に落ちたセルビア人の青年警官とムスリム人の女性画家が、戦時中に再会したことで起きる悲劇。再会しなくても戦争は悲劇なのだが、再会したことで彼らの人間関係はずたずたにひき裂かれてしまう。いや、再会しなくてもどのみち人間関係は破壊し尽くされてしまうのかもしれないが……。ボスニア紛争についての映画は何本も作られ公開されているため、僕はそのたびにWikipediaなどで紛争の概略を調べ直す。でも何度調べても、やっぱりよくわからない。これは一度、ちゃんと本を読んで勉強した方がよさそうだな。アンジェリーナ・ジョリーはこの映画で、紛争の中で起きた女性に対する性暴力を大きくクローズアップしている。20世紀の終わりになって、こんなことが平気でまかり通っていたことに驚くしかないのだが、戦争というのはそもそもがそういうものなのかもしれない。
(原題:In the Land of Blood and Honey)
劇団ポツドールの同名舞台作品を、原作者である三浦大輔本人が脚色した辛辣なラブコメディ。コメディ……なのだろうか。たぶんコメディ……なんだろうな。導入部で登場人物全員を狭い部屋に集めてしまうのだが、その後はドロドロの愛欲模様。こうした群像劇ではたいてい誰かひとりぐらいは「この人が好きだ」とか「この人は俺に似ている」という人物がいるものなのだが、僕は登場人物たちの誰も好きになれないし、誰にも感情移入できない。しかし出てくるエピソードにはいちいち「こういうことって、あるよなぁ」とうなずいてしまう困った状態になってしまった。映画を観ていてとても不快だ。激しく不快感を覚える。それは出てくる不愉快なエピソードの多くに、自分なりに心当たりがあるからかもしれない。登場人物たちの多くが破滅的な結末を迎える中で、映画の最初にカップルになったブス女(失礼な言い方だが映画の中でそういう役なのだ)と冴えない男は、何となく今後もうまく続いていくんじゃないだろうか。割れ鍋に綴じ蓋。まあ、男女の仲なんてそんなもんだよな。
勤務先の会社がつぶれ、住んでいる家も再開発で取り壊しが決まって引き渡しが間近に迫っている状況の中で、行くあてのない男が近所の子供たちと一緒に過ごす夏の日を描く。彼は自分の家に住んではいるが、不法占拠者でありホームレスなのだ。正直この主人公にはまったく共感も感情移入もできないのだが、それよりよくわからないのが、主人公を家から追い出す側に立つかつての同級生の女だ。地元に残り続けた主人公に対して、早々に地元を去って優良企業に勤務しているわけだが、この対比の意図がわかりにくい。この女が事あるごとに主人公を笑うのだが、その笑いの意味もわからない。演じている女優の芝居が曖昧なのだ。もう少し力のある女優が演じていれば、この役の意味合いはまったく違ったものになっただろう。それに比べると、子役たちの芝居はとてもいい。じつに自然だ。
新たに発見されたマリリン・モンロー本人のメモ書きをもとにしたドキュメンタリー映画。映画の中でも述べられているが、彼女について語る人は多く、本も書かれすぎている。語る人ごとに、書く人ごとにまったく違うマリリン・モンロー像が描かれるため、彼女についての印象も人それぞれだ。この映画では残されていたメモ書きから、マリリン・モンロー本人に自分の人生を、生き方の哲学を、悩みを、苦しみを、葛藤を語らせようとしている。ハリウッド映画で活躍する有名女優たちが、それぞれの言葉と肉体を通してマリリン・モンローになりきり、マリリン・モンローの肉声を蘇らせる。関係者のインタビューなどもあるが、それはマリリンの言葉を肉付ける二次的な素材に過ぎない。この映画の主役は、マリリン・モンロー本人なのだ。ただし全体の構成は従来のマリリン・モンロー像を大きく抜け出すものではなく(そもそも彼女について新たに語るべきものはほとんどないのだ)、映画を観ても新しい発見が何かあるわけではないが、ドキュメンタリー映画の作り方としては新鮮なものだったと思う。
(原題:Love, Marilyn)
自閉症の息子を抱えた漁師の男。妻は数年前に家を出て行ったまま戻らない。家の仕事や息子の世話は年老いた母親に任せきりだった。その母親が、急に亡くなってしまう。手のかかる息子を抱えて、男は思うように漁にも出られない。買って間もない船のローンはまだたっぷり残っている。男は精神的に追い詰められていく。高知新聞の記者だった奥村盛人監督の長編デビュー作。高知県を舞台にしたローカルムービーで、先行上映されている高知ではとても評判がいいとのこと。ローカルムービーはたくさん作られているが、本当に「ローカル」を感じさせる映画はあまりない。でもこの映画はちゃんと、その地方・地域の匂いがするような気がする。だからこそ、この映画は地元高知で受けているのだと思う。
刑務所から出所してくる妻に、娘の主演映画をプレゼントしようとするやくざの組長が、自主製作映画のスタッフたちと一緒に本物の抗争をそのまま映画化しようとする話。映画の冒頭から床一面の血糊。鮮血が頭上からシャワーのように降り注ぐスプラッタ描写。クライマックスでは戦う男たちの腕が飛び、足が飛び、首が飛び、銃撃で片っ端から人間たちが蜂の巣になって、血糊が所狭しとまき散らされる。園子温の映画だと、『自殺サークル』で女子高生たちが電車に飛び込むシーンの血糊の量も凄まじかったが、今回の映画はその何十倍だろう。それでいて、これは荒唐無稽なコメディなのだ。スプラッターはスラップスティック。長谷川博己のハイテンションぶりがすごい。堤真一がヘン顔で笑わせるのにも参った。やくざ映画のパロディであり、映画への偏愛がぎっしり詰まった作品であり、権力への不信をあらわにした作品でもある。2時間10分は長いか短いか。まあ『愛のむきだし』は4時間近くあったわけで、それに比べればぜんぜん短いわけだけど……。
全編モノクロの青春映画。恋人に振られたロック青年が、バンド仲間や、友人たちや、母親の恋人や、恋敵の男などとすったもんだの末に、新しい恋人と結ばれてめでたしめでたし……という単純明快なストーリー。小規模な低予算映画だが、物語はともかく、出演している役者たちの面構えがいい、硬質なモノクロ映像よし、音楽よしで、なかなかいいムードなのだ。劇中には主人公たちが自主映画を撮ったり、PVを録ったりするシーンも出てきて、これは「映画についての映画」でもある。自主映画やPVを8ミリや16ミリで撮影しているというのも、今となってはかなりマニアックだなぁ。ガールフレンドが働いているのがサイレント映画専門映画館というのも同じ。サイレント専門館は日本でも作ってくれないかなぁ。無理か。日本映画に限ると、作品がほとんど残ってないもんね。
(原題:Strutter)
良いことをする人は善人で、悪いことをするのは悪人だ。我々は子供の頃から、素直に、素朴に、そう信じてきた。だが「イェルサレムのアイヒマン」を書いた政治哲学者のハンナ・アーレントは、それは間違いだと言う。ナチスの戦犯アイヒマンは、なぜユダヤ人の大量殺戮を平然と行えたのか。それは彼が悪人だったからではない。彼はただ自分の仕事に忠実なだけだった。彼は自分の仕事が、どんな結果を生み出すのかも知っていた。だがそれはもはや、彼の仕事の管理下にはない。彼の仕事はユダヤ人たちを貨車に乗せて旧姓収容所に送ることだけで、その後のことは知ったことではないのだ。こうした悪を、アーレンとは「凡庸な悪」と呼び、これこそが人類史上もっとも巨大な悪だと言った。だがアーレントのこの意見は、当時の人々にはほとんど理解されない。世間の人々にとって、アイヒマンは血も涙もない極悪人でなければならかった。それを「平凡な男」と言ったアーレントは、「アイヒマンをかばっている」「ナチスを擁護している」と社会全体から袋だたきにされる。だがどうだろう。現在の我々はこうした「凡庸な悪」を身近に見てよく知っているのではないだろうか。原発事故後の政府と電力会社の振る舞いはどうだろう。沖縄を巡る政治家たちの振る舞いはどうだろう。そこにはアイヒマンと同じ「凡庸な悪」がうごめいている。
(原題:Hannah Arendt)
近代化を急ぐあまり日本固有の文化や芸術を「旧弊」として捨て去ろうとした明治期の日本で、日本美術の再興と改革に尽力した岡倉天心の伝記映画。東京を終われた天心が弟子たちと共に茨城県五浦(いづら)海岸で過ごした日々が中心で、物語の軸になるのは若くして亡くなった天才画家・菱田春草と、五浦組の中では最後まで長生きした横山大観の友情だ。映画としてはわかりにくいところも多いのだが、それはWikipediaを調べたりして補っていくしかない。天心の伝記映画としては、天心その人の心中をはかりかねるところもあって不可解。青春映画と呼ぶにはいささかトウが立っているが、それでもこれはやはり青春映画だと思う。ここに描かれているのは、近代日本画の青春時代なのだ。
ゼロ戦の設計者であり、戦後は国産旅客機YS-11の設計に携わった飛行機設計技師・堀越二郎の青春時代を、フィクションを大幅に織り込んで描いた宮崎駿の最新作。先日別の試写会に出かけて最初の30分で中座してしまったので、今回は改めて劇場で全編観てきた。これまでにない力作。1992年の『紅の豚』と同じく、宮崎駿の飛行機趣味が全開になっている作品だが、これは子供向けのお話し一切なし。映画は主人公二郎の少年時代から、関東大震災(1923年)を経て、設計者としての会心作である九試単座戦闘機の試験飛行(1935年)までをひとつの区切りにしている。翌年から日本はアメリカとの戦争を始めて日本中をメチャメチャにしてしまうのだが、この映画には戦争そのものは出てこない。ゼロ戦は最後に少しだけ、夢の中の場面に幻影として出てくる。映画の中では結核のヒロインが主人公に「美しいところだけを見せたい」という気持ちから、病気が重くなるとひとり高原のサナトリウムに戻ってしまうのだが、この映画の構成もそれと同じだ。映画は戦争が始まる前の、近代日本の最後の輝きを垣間見させて終わる。大きな物語と、小さな物語の見事な融合が果たされている。
著者が運営している映画評サイト「映画瓦版」から、2013年上半期(1月〜6月)鑑賞分の映画評を掲載。
http://www.eiga-kawaraban.com/
10分程度の新作ショートフィルムを6本集めた特集上映の試写。映写順にごく簡単な感想。
『少女と、女』。ストーリーは面白い。アイデアもいいし、展開にも意外性がある。ただ映画を観ていてちょっと不快な印象しか残らないのは、ここにいる人間たちにリアリティを感じられないからだろう。
『Nostalgic woods』は、映研で映画を撮っている男が彼女に振られてふて腐れ、郊外ロケをしている時にずんずん森の中に入って行くという話。正直、最後の1シーンのオチ以外は余り面白くないのだが、このオチが人を食っていて面白い。
『夢を見た』。これも最後の1シーンでそれまでの前提をひっくり返すという映画。なんか、このパターンが多いなぁ。
『りんご』は殺伐とした近未来を舞台にした映画で、池脇千鶴が終始無言でサバイバルするホームレス女(?)を演じている。
『隕石とインポテンツ』。これはさんざん期待させておいて、最後のオチがなぁ……。なんだかコントみたいなアイデアの映画が多いのかなぁ。冒頭のシーンなんかはすごいと思ったし、その後もかなり高いテンションを維持するんだけど、最後の最後がバシッと決まらなかったのが残念。
『I’m home』は福島の被災地を舞台にしたドラマ。面白いし、凄みが感じられる。これは今回観た6本の中では一番良かったかもしれない。
出演者を大幅に若返らせた『スター・トレック』シリーズの第2作目。ロンドンにある宇宙艦隊の文書保管庫で大規模なテロが発生し、対策を話し合うため集まった幹部会議もまた襲撃を受ける。犯人はジョン・ハリソンという男だが、犯行直後に逃走してしまった。カークは仲間たちとともにハリソンの後を追うのだが、じつはハリソンはとてつもない秘密を抱えていた……。映画冒頭から見せ場がたっぷり。2時間12分の上映時間はあっと言う間に過ぎていく。僕はこのシリーズのファンというわけではないのだが、テレビシリーズやかつての映画シリーズなどを観ている筋金入りの人たちにとってはうれしい映画だろうと思う。悪役ハリソンを演じたベネディクト・カンバーバッチのカリスマ性がすごい。主役であるはずのクリス・パインやザッカリー・クイントを完全に食ってしまっている。
(原題:Star Trek Into Darkness)
洪水(津波)で浸水した大型スーパーに、外から入り込んだ海水と一緒に大型のホオジロザメが侵入。店の中に閉じ込められた人間たちが、ひとりまたひとりとサメの餌食になって行く……という動物パニック映画。どこを取ってもどこかで観たことがあるような既視感に襲われる映画で、海水浴場に突然サメが!という展開は当然『ジョーズ』だろうし、建物の中にサメが入り込むのは『ディープ・ブルー』があったし、中国映画『超強台風』も同じようなネタだ。しかし娯楽映画にオリジナリティなんてものは必要ない。要するに面白ければそれでいいのだ。その開き直りにおいて、この映画は結構あの手この手で工夫をしている。「そんなもんあり得ねえよ!」というシーンも多いのだが、人格的に問題のある人物から殺されていくという、とても道徳的な展開。これもまた、娯楽映画には必須ですな。
(原題:Bait)
大藪春彦の同名ハードボイル小説を映画化したものだが、同じ原作を1980年に松田優作主演で映画化した作品が有名だと思う。優作版『野獣死すべし』は間違いなく傑作なのだが、仲代版はそれとはまた違った凄みがあって強烈な印象を残す。この映画の伊達邦彦は、要するに生まれながらの人殺しなのだ。人を殺すことに何の良心のとがめも感じていない。松田優作版の伊達邦彦は内に宿る「狂気」によって殺人を合理化していたわけだが、仲代版の伊達にはその狂気が感じられない。しかし狂気なき殺人というのが一番狂っているわけで、その点ではこの映画の伊達邦彦は松田優作が演じた伊達の何倍もおかしな人間だ。松田版の伊達は、人間だった男が狂気の力を借りて人間以外の何者かになろうとしていた。だが仲代版の伊達はそもそも最初から人間ではない。根本的に立ち位置が違う異星人みたいな存在だ。それが怖い。ひどく怖い。
新文芸坐の仲代達矢特集。『股旅三人やくざ』は1965年(昭和40年)の東映作品。3話オムニバスで、監督は沢島忠。童謡「どじょっこふなっこ」の合唱に合わせて、秋・冬・春の3つのエピソードが綴られていく。仲代達矢が出ているのは最初の秋のエピソードで、偶然出会った宿場女郎を助けるために体を張る、旅暮らしに疲れた渡世人を演じている。駆け落ちしようとする男の顔も体も覚えていないのに、自分と所帯を持ちたいという男の一言にすがりつく女の悲しさ。おんぼろ船に仲代扮する渡世人と閉じ込められながら、その間「2日間だけきれいでいられた」と言う切なさ。社会の最底辺に生きる男と女が、互いに社会の最底辺にいるという共通点で結びつく。この第1話は他の2話に比べても徹底したリアリズム。これはどうも脚本を笠原和夫が書いているらしい。第2話は、松方弘樹扮する若いやくざと、志村喬扮する老やくざが登場する冬編。これは物語の舞台が限定されているワンセットドラマ。舞台劇のような雰囲気もある。第3話は中村錦之助主演のコメディ風作品。
メルマガ「聖書&キリスト教ナビゲーター」で連載していた月1コラム「聖書ダメ人間」を、Kindle向けの電子書籍として発行しました。聖書の中に出てくるダメな人、ひどい人、とんでもない人ばかりを集めたものです。だって立派な人より、ダメな人の方が共感できるでしょ? それに古代の立派な人というのは「信仰熱心で敬虔な人」ばかりで面白くないのです。聖書の中のダメな人というのは信仰の薄い人たちで、そういう意味では現代人に通じるような普通の人たちなのです。
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というわけで8月から有料メルマガを発行します。このメルマガの購読料で「映画瓦版」の運営を支えますので、メルマガの購読者数がさほどでもない場合は「映画瓦版」を今年一杯で閉鎖します。
じつはWordPressを使ってこっそりと新しい日記用ブログを立ち上げている。まだ試運転中だけどね。
新佃島・映画ジャーナル
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漫画の神様が手塚治虫なら、報道写真の神様はロバート・キャパだ。この場合「神様」というのは、たったひとりであるジャンルを開拓して確立しつつ、自らが確立したその分野で傑出した仕事をして、今も多くの人たちの目標となっている人のことだろうか。今でもキャパに憧れて報道写真家を目指す人は多いはずだし、キャパは今でも多くの報道写真家たちの目標であり続けている。そのキャパがスペイン内戦を取材して撮影した大量のネガフィルムが、2007年になってメキシコで発見された。なぜキャパの写真がメキシコにあったのか。なぜそれが今になって発見されたのか。この映画はキャパの写真を通して、今も多くの人たちの心の傷となっているスペイン内戦と、そのスペインから大量の亡命者を受け入れたメキシコの関係を紹介していく。キャパやその写真の話であると同時に、これはスペイン内戦と亡命者たちの話でもある。
(原題:The Mexican Suitcase)
熊本県天草市牛深を舞台にしたローカルムービー。確たる地場産業もなく、地盤沈下して行く町を救おうと、大竹しのぶ扮するヒロインが友人たちと一念発起して新事業を立ち上げる。それは廃業して長く廃屋同然になっていた元遊郭を、料亭として再オープンさせることだった。募集広告を打って人を集め、新しい仕事は軌道に乗り始めたのだが……。ローカル映画で方言なども盛り込まれているが、出演しているのは東京の俳優ばかりでキャスティングに地域色がないのが残念。こういうのはやはり映画の中から伝わってきてしまうものなのだなぁ……。随所に面白いところもあるのだが、それが映画としての大きなうねりにならずに終わってしまう。感心したのはラストシーン。雪が舞う中でのやけくその乱舞からは、未来への「希望」だけは捨てまいとする地方都市の心意気を感じる。
このブログを立ち上げる前、「映画瓦版」に付属する日記ページとして作られていた「新佃島・映画ジャーナル」の原稿をまとめ、Kindle用の電子書籍として発売しました。タイトルは「新佃島・映画ジャーナル 1999-2003」。1999年8月から2003年末までの日記ですが、総文字数83万字で、これまでに出したどの電子書籍よりもボリュームの大きなものです。定価250円。当時を知っている30代後半以上の映画ファンには、懐かしさ一杯の内容になっていると思います。
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