映画|黒いスーツを着た男
働いている自動車ディーラーの社長令嬢と10日後に結婚する主人公は、同僚たちと独身最後のバカ騒ぎをした帰りに車で人をはねてしまう。とっさに逃げてしまったが、この事故には目撃者がいた……。
主人公たちは誰も悪人ではない。だが、誰も正しい人間ではない。黒と白の間のグレーの領域を漂いながら、それでも真面目に、誠実に生きようとしてきた人たちが、ひとつの交通事故で結びつけられる。事故の一件を使って主人公を脅迫しようとする人もいなければ、死んだ男のために血の復讐をしようとする者もいない。そうしたものを出さないところにこの映画のリアリズムがあるのだが、しかしそれはわかりやすいサスペンスを否定するということでもある。
『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか』(マタイ16:26)。このテーマの映画は山ほどあるのだが、この映画もそんな作品の中の1本。しかし結末はちょっと意外なものだった。
(原題:Trois mondes)



アンジェリーナ・ジョリーの初監督作で、脚本と製作も彼女自身が行っている。ボスニア紛争直前に出会って恋に落ちたセルビア人の青年警官とムスリム人の女性画家が、戦時中に再会したことで起きる悲劇。再会しなくても戦争は悲劇なのだが、再会したことで彼らの人間関係はずたずたにひき裂かれてしまう。いや、再会しなくてもどのみち人間関係は破壊し尽くされてしまうのかもしれないが……。ボスニア紛争についての映画は何本も作られ公開されているため、僕はそのたびにWikipediaなどで紛争の概略を調べ直す。でも何度調べても、やっぱりよくわからない。これは一度、ちゃんと本を読んで勉強した方がよさそうだな。アンジェリーナ・ジョリーはこの映画で、紛争の中で起きた女性に対する性暴力を大きくクローズアップしている。20世紀の終わりになって、こんなことが平気でまかり通っていたことに驚くしかないのだが、戦争というのはそもそもがそういうものなのかもしれない。





良いことをする人は善人で、悪いことをするのは悪人だ。我々は子供の頃から、素直に、素朴に、そう信じてきた。だが「イェルサレムのアイヒマン」を書いた政治哲学者のハンナ・アーレントは、それは間違いだと言う。ナチスの戦犯アイヒマンは、なぜユダヤ人の大量殺戮を平然と行えたのか。それは彼が悪人だったからではない。彼はただ自分の仕事に忠実なだけだった。彼は自分の仕事が、どんな結果を生み出すのかも知っていた。だがそれはもはや、彼の仕事の管理下にはない。彼の仕事はユダヤ人たちを貨車に乗せて旧姓収容所に送ることだけで、その後のことは知ったことではないのだ。こうした悪を、アーレンとは「凡庸な悪」と呼び、これこそが人類史上もっとも巨大な悪だと言った。だがアーレントのこの意見は、当時の人々にはほとんど理解されない。世間の人々にとって、アイヒマンは血も涙もない極悪人でなければならかった。それを「平凡な男」と言ったアーレントは、「アイヒマンをかばっている」「ナチスを擁護している」と社会全体から袋だたきにされる。だがどうだろう。現在の我々はこうした「凡庸な悪」を身近に見てよく知っているのではないだろうか。原発事故後の政府と電力会社の振る舞いはどうだろう。沖縄を巡る政治家たちの振る舞いはどうだろう。そこにはアイヒマンと同じ「凡庸な悪」がうごめいている。
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